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橘宮

   

<オープニング>

●橘宮
 真冬にもかかわらず深い千歳緑に覆われた山々を、ゆうるり湧きだした朝靄が彩っていた。
 凛冽な冷たい早朝の空気を胸に満たし、広大な鎮守の森に抱かれた神社の鳥居を目指す。
 清らなせせらぎの響きにふと足をとめ、橋を越えた先に見えた石造りの鳥居を見上げたなら、丁度鳥居の彼方から昇り始めた陽のひかりに瞳を射られた。
 ――これが、橘の御来光。
 然程信心深くない娘も思わず手を合わせた。音に聞く橘宮の早朝参拝、そのために旅籠を早めに出てきた甲斐があったというものだ。
 軽く一礼して鳥居を潜り、大きな橘の木陰にしつらえられた手水舎で手と口を浄めたなら――さあ、何処から宮をめぐろうか。
 橘宮。
 大きな鎮守の森の中に、火那山津見神を祀る本殿や壮麗な神楽殿を始め、八百万の神々を祀る様々な社が点在するこの神社は――もちろん、厳めしく仰々しい正式な名もきちんとあるのだが――橘宮という愛称で親しまれていた。
 冬にも緑枯れぬことから常世の象徴ともされる、橘の木が多く植えられていることがその由来。
 ここでは参拝客に振舞われる神酒も橘の実で造った橘酒だ。
 まずは橘酒を味わおうか、それとも本殿前の拝殿に詣でるのが先か、神楽殿の見物が先か。
 それとも、武雄尊と華玖那幸姫を祀る社を探して、縁結びを願おうか。

●来光
 深い千歳緑の山間からゆうるり湧きだした朝靄の冷たさ、深々たる鎮守の森の樹々の香りに胸を洗われ、清らなせせらぎの響きと鳥居の彼方から昇り始めた陽のひかりに心を洗われるよう。
 荘厳な石造りの鳥居を潜ればそこは、深い千歳緑の鎮守の森の中に開けた神域だ。
 草履で踏む玉砂利の音を心地好く聴きながら、まずは大きな橘の木陰に設えられた手水舎へ。
 神へ詣でる前には手と口を浄めるのが霊峰天舞の作法だ。
 龍の水口から御影石の水盤に滾々と注がれる手水舎の清水。清冽なその水を柄杓で掬い、手を清めれば痛いほど冷たくて、口をすすげばその冷たさが胸澄み渡るように心地好い。
 清しい吐息をついて見渡す光景は、先程よりも心なしか清浄だ。
 朝靄が揺蕩う玉砂利の神苑、鎮守の森の奥から迫る千歳緑の山々、その彼方に蒼く霞む峰。
 ――さあ、何処から宮をめぐろうか。
 凛と冷えた朝の大気の中、美しく敷き詰められた玉砂利と、冬にも枯れぬ緑と鮮やかな黄の果実を湛えた橘の木に彩られた神苑を散策するだけでも清しさが心と身体に満ちていく。
 清らな朝靄の香りに、橘宮の神域を囲む鎮守の森の樹の香り、厳かで、背筋がぴんと伸びるような香りの中にふと、霊峰天舞の朝には馴染みの米を炊く匂いが漂ってくるけれど、ここではそれすらも清浄な火で神に供える神饌を調える神事の気配を伝えるもの。
 神饌の神事を観ることは叶わないけれど、これも永の歳月、毎朝繰り返されてきた祭祀のひとつと思えば、気配を感じるだけでも心が澄んでいくかのよう。
 美しく敷き詰められた玉砂利のなかに見える敷石の参道を辿れば、火那山津見神を祀った本殿や壮麗な神楽殿に辿りつく。神苑に時折見える、鎮守の森へいざなうような脇道を辿れば、他の神々を祀る様々な社に辿りつけるだろう。
 本殿前の拝殿に詣でるにしろ、他の社に詣でるにしろ、賽銭箱に賽銭を入れ、その上に吊るされた鈴を鳴らし、二拝二拍手一拝で拝礼するという作法は変わりない。
 武雄尊と華玖那幸姫を祀る社で縁結びや夫婦円満を願うなら、二人分必要だから四拍手、なんて言われていたりもするが、
「――んでも、そんなに堅苦しく考えなくてもいいみたい。一番大切なのは心だもの」
 それはきっと何処でも同じだよね、と扉の狩猟者・アンジュ(cn0037)は笑みを燈した。

 一年の始まりの朝、霊峰天舞の神社にお参りに行ってみない、と暁色の娘が誘う。
 橘宮――そう呼ばれる大きな神社は、日の出の頃合いに詣でる早朝参拝で知られる場所だとか。特別な日でなくとも心を清浄な気で満たしてくれるという御来光。それが初日の出のものとなれば、その清しさはいかばかりか。
「きっとね、早朝の神域をそぞろ歩くだけでもすごく心地好いと思う」
 勿論、清らな世界で神に詣で、己と向き合うのも。
 本殿に祀られる火那山津見神とは此華咲夜若津姫のことなのだとか。だからといってここの参拝でかけた願いが直接姫の許へ届くわけではないだろうけど、もしも姫の御前で願いを語るとするなら、間違いなく姫は優しい微笑みで耳を傾けてくれるはず。
「……ね? そんな風に思ったらふんわり心があったかくなる気がしない?」
 一年の始まりに、志を新たにして気を引き締めるのも。
 幸せな願いをかけるのも――きっと清らに澄んだ心に幸せを招くことなのだろう。
 もっと確かなかたちで幸せを感じたければ、本殿の近くにある神楽殿へ。
 早朝ゆえに神楽そのものは行われておらず、壮麗な造りの社殿を見物して楽しむところなのだが、神楽殿の傍に神酒の授与所が設けられている。そこでは雪のように清らな白磁の盃にそそがれた、橘の実で造られた神酒を味わうことができるのだ。勿論、大人だけの楽しみだけれども。
 爽やかに橘が香る、優しい陽だまり色した濁り酒。
 呑み乾せば白磁の盃の底に、金彩で描かれた橘の花が顔を覗かせる。
「それを見るとね、心にも花が咲いたような心地になるんだって」
 これもすごく楽しみ、と暁色の娘がひときわ笑みを和らげた。

「あのね、そんな風に一年の始まりを迎えられたなら、また逢おうね」
 心を澄ませて、清らな気や幸せを招き入れて――そうして歩んでいく新しい一年の、何処かで。


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参加者
NPC:扉の狩猟者・アンジュ(cn0037)

<リプレイ>

●橘宮の光
 厳かに佇む鳥居の彼方から陽が昇る。
 すべての穢れを浄めたまっさらな朝に、うまれたばかりの光が射した。
 御来光を望み――世界が生まれ変わる様を、己が肌身で確かに感じ取る。

 清浄。
 何より鮮烈にヴァレリーが感じたのはそれだった。
 躯を透きとおらせて、心に、魂にそのまま触れるような光。
 眼鏡越しに瞳を射た陽のひかりは鈍銀の眼鏡鎖にも清らな煌きを渡らせ、魂を漱いで洗ってゆく。
「なるほどなぁ……」
 確かに、信心深さとは縁遠くともぴんと背筋が伸びる思いがした。身の引き締まる心地にもなれば遠からず迎えるだろう最後の決戦前の精進潔斎にもなろうというもの。
 ――さて、あと何度こんな光を目にすることができるやろか。
 胸裡で呟き拝殿へ向かうけれど、勝利祈願かと言えば少し違う。
 世界から歪んだ棘を払拭することが叶っても、それは終わりではなく始まりなのだ。善も悪も元よりひとが持つものなれば、一切を棘のせいに出来なくなってからこそが、きっと、ひとにとっての本当の試練の始まりだと思うから。
 詣でたのは、火那山津見神――此華咲夜若津姫を祀る本殿前の拝殿。
 冬にも枯れぬ常世の緑を豊かに茂らせた橘の大樹に護られた古式ゆかしい社殿は、永い歳月を経てきた風格を確かに感じさせるのに、いまだ建物から新しい白木の檜が香る気さえする、不思議と独特な雰囲気を持つ場所だった。
 正面屋根の唐破風を潜れば、賽銭箱の奥の大扉が開かれている。
 清らな白布が掛けられているから、扉向こうの本殿は見えないけれど、確かにヴァレリーは本殿に向き合った。
 決戦。最後の一頑張りの、その先に拓ける世界を歩いていくひとが。
 ――どうあれ、強くたくましいことを信じ願って。
 手を合わせれば、限りなく優しい風が、扉の向こうから吹き寄せた。
 ふうわり煽られた白布の向こうで、本殿の御神体なのだろう小さな鏡がきらりと光をくれる。
「……おひぃさん」
 柔らかな眩しさに知らず笑みが綻んだ。
 ――おひぃさんからの振舞酒も、ありがたく頂いてくな。

 ――またひとつ、涯てを越えるんだね。
 凛と冷たい朝の大気をそっと震わす扉の狩猟者・アンジュ(cn0037)の言葉に笑み返し、まっさらな新年の御来光に瞳を細めてハルネスは、彼女とふたりで涯ての先へ踏みだした。
 厳かに佇む鳥居を潜れば風が変わる。
 冷たい朝靄と水と、鎮守の森の香。それらをひときわ清浄に澄み渡らせた風に頬を撫でられれば、此処は神のおわす場所だと魂の芯が感じ取る。落ち着いた紺青に藤紋燈す紋付羽織袴が身を引き締めるけれど、身を通して心に触れられているかのよう。
 この敬虔な気持ちは何処から来るのだろう。
 大いなる存在に見守られていると感じれば、子供に還った心地さえする。
 ああそうだ、確かに。
 ――此華咲夜若津姫は紛うことなく私達の母なのだろうね。
 母上に逢いに行こうか、と促せば、「ね、おかしくない?」と赤の錦に花扇舞う振袖姿の娘がくるりと回って訊いた。綺麗だよと目元を和らげ、
「姫に『私のお嫁さんです』ってアンジュを紹介しようかな、なんて」
「アンジュも! アンジュも『お婿さんです』ってハルネスさんのこと紹介する……!」
 面映ゆさも擽ったさも綯い交ぜに笑んで続けたなら、何度も何度も瞬いた娘に世界の歓喜すべてあつめたような笑みが燈った。
 生涯傍にいるから、寂しくないよ。
 幸せ囁く娘と拝殿で笑み交わし、神の御前にも響くようと拍手を打つ。
 お嫁さんです、お婿さんです、と改まって紹介しあえば面映ゆくも何処か誇らしく。
 ――これからも彼女と涯てを越えて行きます。
 どうか見守ってください。
 姫が笑みを綻ばせ、頷いてくれたかのように、扉の白布が風にふうわり舞って、奥の鏡が煌いた。

 透きとおってゆく。
 龍の水口から御影石の水盤に注がれる清水で両手と口を清めたなら、胸のなかも瞳に映る世界も何もかも澄みきっていく心地がして、シャルティナは大きく瞬きをした。
「だいじょぶでしょか……?」
 軽く身を捻って確かめたけれど、大丈夫、汚さない転ばないって約束して大好きな保護者に作ってもらった取っておきの振袖も濡れてない。
 今日は走ったり飛んだり跳ねたりしないですよ、と歩き出せば、風が春色の袖を柔く掬ってくれた。
 春のあけぼのに光射すような桃色の絹地を、春の花いっぱい乗せた御所車の紋様が渡る。
 お年玉からのお賽銭を拝殿の賽銭箱に入れ、大きな鈴をがらんがらんと鳴らし、
 ……。
 …………。
 ………………。
「何回礼をして手を打つか忘れちゃったです! アンジュさん〜!!」
「はーい! んきゃーシャルティナちゃんすごい可愛い〜!」
 慌てて辺りを見回したなら思ったとおりのひとと一緒にいる暁色の娘と瞳が合って、ほわっと春の花咲くような笑みを燈したシャルティナは、二人と御挨拶。
 明けましておめでとうございます。
 二拝二拍手一拝、と教えてもらったなら御礼も言って、改めて神様と向き合った。
 ――どうか大きな戦いでも、皆が無事でいられますように。
 優しく柔らかに、扉の白布が少女の願いを掬って、鏡の光の雫を届けてくれる。

 神が祀られている。
 ――とは言え、神社で直接神様に逢えるわけではないことは9歳のルルでも識っている。けれど、
「頑張れ〜って言われている気がするんだよ」
「そうだね、不思議な気持ちになってくる」
 小さな友の言葉にチロも頷いた。澄んだ泉に張った氷の如く空気が凛と張り詰めた神域に立てば、誰かが確かにそこにいて、己の躯でなく心を見つめられている心地。
 でも、お願いごとはないんだ。
 ふたり同時に言って笑いあう。
 だって今ここに無事に立っていられることで、チロの願いはもう叶っている。願いがあるなら自分で頑張って、それでも駄目な時はお友達に助けてもらうのだとルルは母に教わった。
 だから今日は神様に、挨拶を、感謝をしに行く日。
 拝殿に立ち、まずはお辞儀して――
「……ところでチロちゃん、2はいっていくつ? 5より大きいの?」
「は?」
 心底不思議そうなルルの問いに、新年早々チロの口から何かすっぽ抜けたような声が洩れた。
「おいおい大丈夫? 下手したら自分の年齢も間違ってんじゃないの……?」
「間違ってないよ! 9歳だよ!」
「……さて問題です。9歳と5歳、年上なのはどちらでしょう」
「…………えっ、と…………」
 どうしよう固まっちゃったよ9歳児。
 軽い頭痛と眩暈にくらりと来つつ、前言撤回します、お願いごとができました、と縋る思いでチロは神様に手を合わせた。
「この子が今年こそ真面目に勉強して、せめて足し算位はまともにできるようにしてあげてください」
「……えっと、えーと……」
 切に、切に、お願いいたします――と、この上なく切実な願いを掛けるあまり胸の裡の願いが声に出ているチロの隣で、がくぶるしつつルルも必死で手を合わせた。
 おかしいんだよ友達って助けてくれる存在のはずなのに、
 ――神様助けて! お友達がお勉強しろとか言ってルルに恐ろしい呪いをかけています!
 何とかしてやめさせてください、お願いします……!!
 修験者の滝行でもこれほどではあるまいと思える真剣さで神様に願うふたりの前で、風にさらさらと鳴った扉の白布が軽やかに舞い上がる。奥の本殿に祀られた小さな鏡がきらきら煌く様は、まるで二拝の数を教えてくれたようで。
 そして、神様――此華咲夜若津姫が、くすくすと優しい笑みを零してくれたようだった。

 透きとおるせせらぎに心が掬いあげられていくみたい。
 凛冽に清冽に、何処までも澄みきった朝の大気に深呼吸すれば、椿の簪で結いあげた薄荷緑の髪も優しい光沢を抱く常盤色の振袖も透かして、ヴリーズィの何もかもが透明になってゆく心地。
 錦も肌も透かして、胸の芯に御来光のきらきらのかけらが満ちてゆく。
 眩くてまっさらな煌きを抱いて、新しい一歩を始めよう。
 二拝二拍手一拝。
 拝殿に向き合い、ひとつひとつの所作を丁寧に、大切に。
 夢は去年叶ったけれど、更に上を目指したい。願いを叶えてなんて言わないから、
 ――どうか見守っていてください。
 わたしはもっと頑張れる。
 ふわり頭を撫でてくれるような風を感じれば、そよいだ白布の向こうからきらきらがもうひとつ。
「ね、アンジュ。わたしは思ってたよりずっと欲張りみたい」
 知らず咲き綻んだ笑みのまま囁けば、もっと欲張っていいんだよと親友が破顔した。
 きっとアンジュも願いを持っているだろうから、と眦緩めれば、
「持ってるよ! あのねあのね、次のリズちゃんの舞台には初日にアンジュを招待して……!」
 ずっと抱いていたのだろう願いを明かされ、ふたり声をあげて笑いあう。声まできらきらする心地。
 新たな始まりに踏み出す爪先に震えはない。ちっとも怖くない。
 ――わたしはもっと、頑張れる。

●橘宮の花
 氷から滴る雫を思わす、凛と清冽で冷たい冬の朝。
 けれど墨染めの着物と袴を纏えば、リューウェンの胸にはあの春迎えた香り椿が薫る。穏やかに微笑して差し伸べた手の先には彼だけの華。まっさらな陽のひかりを享けてひときわ彼女が綺麗に咲いていたから、彼は眩しげに瞳を細めた。
 見上げた真紅の瞳に宿る優しい光にラヴィスローズの鼓動が跳ねる。
 振袖に真紅を選んだこと思い起こせば錦纏うこの身も火照るよう。だけどまずは澄みきった大気に深呼吸。此華咲夜若津姫に聴いてもらいたい祈りを胸に抱いて、誰より優しい手に導かれ、清らかな神域に静々と足を踏み入れた。
 錦に咲くのは華やぐ牡丹。
 春に咲き、大切に手をかけ愛情を注げば、冬にも咲き誇る大輪の華。
 氷水のような手水舎の清水も、胸の曇りを澄み渡らせて、その奥の願いを優しく潤してくれるよう。拝殿へ辿りついたなら、並んでふたり、霊峰天舞の作法に倣う。
「今年も色々頑張るのじゃ!」
 ――遊びに仕事、冒険……そして、恋にも。精一杯、全力で。
 瞳を閉じて手を合わせ、一心に祈る少女の姿に笑み深め、リューウェンも神と向き合う。
 ――どうか今年一年も、そしてこの先もずっと……。
 ふたりを歓迎するよう舞い上がる扉の白布。前から吹き寄せる風なのに背を押される心地がした。瞬きして、ふたりは自然と互いに向き直る。先に口を開いたのはリューウェンのほう。
 神様だけでなく、御本人にも願いたい。
「どうか今年一年も、そしてこの先もずっと、共に過ごして頂けるだろうか?」
 ――ラヴィスローズ殿と、ずっとこの先の道も歩んで行きたいと思うのだ。
 薔薇色の瞳が瞠られた。
 たちまち同じ彩に染まるラヴィスローズの頬、ああでもきっともっと赤く染まってゆく。だってだって、彼の紅の瞳から眼が逸らせない。
 ――愛してる。
 大祭の夜、光の薔薇の世界で囁かれたあの言葉が夢ではなかったのだと識れば、身体の芯から甘い震えが溢れだす。唇も震えて巧く言葉にならない。でも、
 頑張るって姫にお約束したばかりだもの!
「…………はい」
 全身全霊でようやく絞りだした声は、か細く掠れたけれど。
 途端に眩い歓喜と確かな幸せが魂の芯から指先にまで迸って満ちて溢れた。
 ――妾の心はもうずぅっと前から、貴方だけのもの。

 ――冬は、つとめて。
 随筆にそう記したというのは誰の話だったろう。
 けれど理屈ではなく、想いそのままの彩が胸に染み渡るような心地でエリシアは、限りなく清々しい冬の早朝に身を浸した。
 呼吸のたび、凛冽な湧水に洗われ、心の鏡を磨かれていくかのよう。
 濃紫の肩掛けも、鶯色の羽織も、薄紫の衣も、すべて透かして清冽な朝が肌に触れる。
 淡く揺蕩う朝靄越しにも雅な碧瓦と丹塗りの柱が鮮やかな神楽殿の壮麗な佇まいに感嘆を零し、傍に設えられた授与所で頂くのは橘の神酒。
「この盃を頂いて帰る……のは、やっぱり駄目ですよね?」
「初穂料を頂ければ、大丈夫ですよ」
 思わず呟けば神酒を注いでくれた神楽巫女が笑んだ。破魔矢や御守り同様、縁起物なのだとか。
 清らな雪色の盃に満ちる、優しい陽だまりの彩。
 口許に寄せれば爽やかな橘だけでなく米酒の甘さも香る。ひとくち、ひとくちと味わえば、躯の芯にふわり、ふわりと橘の香と酒香の熱が咲き綻ぶよう。
 ゆうるり乾した白磁の底に、柔らかな金色の橘花が咲けば。
 鈴蘭の娘にも笑みが咲いた。

 橘の御来光。
 晩秋の朝にも見たはずの光を、生まれ変わった世界でふたりはまっさらな心地で享けとめる。
「なんでか特別なんだよなぁ」
「今日だけの、とっておきの光だもの」
 初日の出を享けた瞳を細め、ごく自然にふたりで微笑みあって、記憶に鮮明に残ったままの光景を瑞々しく新鮮な気持ちで見渡した。朝靄の紗と鎮守の森に秘められた幽世へ向け、ルィンは黙礼を、ゼルディアも深い一礼を贈り、名状しがたい想いを眼差しで交わし、ともに拝殿へと足を向ければ。
 常世の緑鮮やかな橘の梢から零れたしずくが、ふたりの手で挨拶のように優しく跳ねた。
 参詣を終えたなら、
「折角来られたんだもの、今日は橘酒よね」
「そりゃそうだ。前に来た時から俺も狙ってたんだぜ」
 ああ、両手で戴いた雪のように清らな白磁の盃はひんやりと冷たいのに、どうしてこんなに優しい肌触りを伝えてくれるのだろう。
 爽やかに昇る橘の香り、とろりと甘い米酒の香り。
 匂いも格別、と眦緩め、ゆるり盃を傾けるルィンに倣ってゼルディアも盃に口をつけた。霊峰天舞のお酒は大人の味に思えて、二十歳を越えたばかりの身にはこれまで敷居が高かったのだけど。
 爽やかな橘の酸味、やわらかに蕩ける米酒の甘さ、ひとくち喉に落とせば優しく躯の芯に燈る熱と――ひときわ鮮やかに咲き誇る、薫り。
「…………大変、好み、でした」
「だと思ったぜ」
 おかわりって駄目かしら、いやそもそもお神酒をがぶがぶしちゃ駄目よね……!! なんて風情でぷるぷる我慢する金糸雀さんの様子に、ルィンは悪戯な笑みひとつ。
 神酒そのものは橘宮で仕込まれているという話だが、同じ橘酒を造る酒蔵の所在は授与所にいた権禰宜に聴き込み済みだ。
 大切に乾したなら――雪色の芯でそっと煌く橘の花。
「今年もよろしくお願いしたい、です」
「今年もよろしくな。そして、また一緒にいろんな景色を見に行こうな――ゼルディア」
 宝物見つけた歓びに願いを乗せ、改めて挨拶すればルィンがそう微笑んでくれたから、早速次の景色をねだってみる。
 ――帰りにおみくじ引いても良い?
 行こうぜと迷わず破顔した彼が纏う夜色の紋付羽織袴には、鴛鴦が梅の花枝くわえる花喰鳥紋。彼らしい茶目っ気。光咲くように笑んだゼルディアが隣に添った拍子に揺れた中振袖には、穏やかな千歳緑がほんのり光に融ける錦に梅花が流れ咲く。

 梅花は百花のさきがけ。
 また一年、誰もの許に花咲く春の暖かな風が吹きますように。



マスター:藍鳶カナン 紹介ページ
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楽しい 笑える 泣ける カッコいい 怖すぎ
知的 ハートフル ロマンティック せつない えっち
いまいち
参加者:11人
作成日:2015/01/26
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  • ハートフル7 
冒険結果:成功!
  • 生死不明:
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