契約

●愛しき契約

 夜。
 静かな泉。静かな森。静かな闇。
 さえずりの泉は、昼とは違う顔を見せていく。
 まるで、今宵の二人のように。

 かしゃんっ!!
 何かが割れるような音がした。
 いや、実際、何かが割れたのだろう。
 だが、目の前に繰り広げられている事態。
 それの方が深刻であった。
 アゼルの首に突きつけられた短剣。
 怒ったような、悔しそうな涙を浮かべながら、メイプルは短剣を握り締めていた。
 これまで何があったのか、覚えていない。
 ただ、二人が楽しく酒を飲んでいた事だけは覚えている。
 アゼルは無表情のまま、口を開いた。
「メイプル、そのままで聞いてほしい」
 アゼルは左手に力を込めた。
 メイプルの突き立てるナイフを持った手を覆うように。
 拒否するのではなく、そっと暖めるかのように。
「私が、殺されていいと思うのは、おまえだけ。その時がきたら、おまえが私を殺すのだ」
 それは、二人にとって初めての約束。
「私が死にかけたら……止めを刺すのはおまえだ、メイプル。でも、今は……側で私を癒しておくれ」
 メイプルの手がゆっくりと下に下げられていく。
「私の夭桃」
 愛しく甘い囁き。
 なんと狂おしく悲しい響きを持つ囁きなのだろう。
「アゼル様………」
 最後に微笑むアゼル。
 メイプルの手から、短剣が滑り落ちた。
 何かが消え去ったように、すっと。

 音も無く風が吹く。
 後に残ったのは、壊れたグラスの欠片が一つ。
 それは誰かの涙の形に似ているようであった………。


イラスト: ネム