泉の畔で…

● しあわせは、笑顔ともうひとつ


 フェレクの背中は大きい。カンショウは思う。歩幅の所為かフェレクの方が歩く速度が速いのが少し悔しくて、でも先で待っていてくれるのが嬉しくて――今日は、手を繋いで共に歩いてくれていて、その優しさが嬉しくて仕方が無い。
 カンショウはとても可愛い。フェレクは思う。本人は少しおめかしして来たのだと言うけれど、今日は何時にも増して――思わず見蕩れてしまう位に綺麗で可愛くて、俺の為に今日の為にと思うと、それが嬉しくて仕方が無い。
 カンショウがフェレクを見上げる。
 フェレクはカンショウに微笑み掛ける。
 幸せが2人の間に通い合い、そして唐突にフェレクの姿が消えた。
 水音と水飛沫。昼の森、さえずりの泉に注ぐ陽光が、降る雫を照らして無数の虹が散る。カンショウが慌てて泉の淵に駆け寄れば、煌く水に肩ほどまで浸かって、フェレクは茫然とカンショウを見上げていた。
 泉の透明な面に反射した光が、カンショウを包み込む。鮮やかな椿が咲き誇る緑の髪が、橄欖石の如くに輝く。とても楽しそうな、春の陽射しを思わせる笑い声を立てて、それからカンショウは小首を傾げた。
「フェレク、大丈夫ですの?」
「ああ、うん。大丈夫」
 君に見とれていて落ちたんだよ、カンショウ。
 言いかけて言葉を呑み込み、なんだか可笑しくなってフェレクも笑い出す。
 可愛いですわねぇ、フェレクは――カンショウは手を伸べる。
 その笑顔が、仕草が、動作が、全てが可愛くて、愛しく思えて、カンショウもまた笑った。
「……ほら、風邪をひいてしまいますわ」
 促されてカンショウの手を取り、泉から上がるフェレク。
 カンショウはフェレクの水の滴る頬を暖める様に手を添えて、唇に指を滑らせる。
「唇、とても冷たくなっていますわ」
 頬に添えられた手に、自身の手を重ねるフェレク。
 ゆっくりと顔を寄せながら、少年は大好きな少女の間近で囁く。
「カンショウ、あまり近付くと濡れてしまうよ」
「一緒に濡れてしまいましょう。乾かせば良いのですわ、温かなショコラドリンクも用意して――」
 カンショウが紡ぐ言葉の最後は、唇に呑まれた。
 カンショウの暖かな唇と、フェレクの冷たく濡れた唇が柔らかく融け合う。
「誰よりも、何よりもカンショウが好きだよ……ずっと一緒に居ような……」
 一度離れて少女の双眸を覗き込み、フェレクは思いを言葉に乗せた。
 大きな緑の瞳でフェレクをじっと見つめるカンショウ。
「わたくしも――今年もこの日を迎えられて、本当に嬉しいですわ。今日のこの言葉は特別だから一度だけですわよ」
 綻ぶ花のように、カンショウは甘く微笑んだ。
 午後の光が泉の畔に射し込んで、世界と少女を鮮やかに彩る。
「愛していますわ、フェレク」
 さざめく光の中で、カンショウからフェレクにキスをした。
 触れるだけのキス。
 これからを約束する暖かなキスを。


イラスト: 小林環