say good bye to Daydreaming.


       



<オープニング>


 世界が塗り替えられてゆく。
 移ろう時の中で生まれるもの、終わるもの。
 いずれを掴み取り手放すべきなのか、全ては己の心のみが知っている。

「なーんか、まだ実感わかねーんだよな」
 石堂・武流(牙道忍者・bn0112)は腑に落ちないといった様子で首を傾げた。
「そのうち世界結界がなくなって、俺達みたいな能力者が普通の時代が来るんだろ? なんか変なの。心配だよなあ」
「何を言うか! 全ての人間が真実を知り、己が力で生き抜いて行ける世界……未来という言葉に相応しい未来だな……常考……! 僕は銀誓館の皆とともに歩めたこの人生を愛しく思う。……皆、ありがとう」
 古嶋・コジロウ(高校生運命予報士・bn0311)は微笑みながら皆を振り返った。
 いつも通りの校門。
 すれ違う人の中には知らない顔も多い。あるいは、顔見知りだけれど話したことはないとか、一方的に知ってるいるだけだとか。そんな近いけれど縁遠い人たちもまた、少なくない。
 けれど、その誰もが銀誓館学園という唯一無二の場所で出会った戦友なのだ。
 2006年、鮮やかな夏に幕を開けた命懸けの戦い――まばゆいばかりの白昼夢はいま終わりを告げようとしている。
 これからは夢ではない、幻ではない。長い長い眠りについていた人々はその目蓋をゆっくりと開いて本当の、あるがままの世界を目の当たりにするのだろう。
 武流はこれまでの反動のように前向きなコジロウにため息をついて、仕方なさげに頭をかいた。
「まあ、色んな案も出してもらったし、何とかかんとかやってくしかないんだよな。うっし、頑張ろうぜ……っと、もちろん戦いだけじゃなくて、遊びも盛りだくさんでさ! 学校卒業してもまた皆で集まったりすんの、そういうの同窓会って言うんだろ? 俺、今からすっげ楽しみにしてるんだ」
「ああ、僕もだ」
「ところで弥鶴は? なんでいねえの」
「さあ。卒論にでも追われてるんじゃないか」
 すげないコジロウの返答に武流は地団駄を踏んだ。
「ったく、最後まで締まらねーんだからもうっ!」
 まあいいや、と最近持つようになった携帯電話を不器用にいじってメールを二通送る。仰木・弥鶴(鳥・bn0041)ともう一人、随分とご無沙汰だった甲斐原・むつき(運命予報士・bn0129)にも。

 無事に送信できたのを確認してから、武流は改めて顔をあげた。軽く手を挙げて、笑う。
「そんじゃ、またどっかの教室で会おうぜ。俺たちの戦いはまだまだこれからなんだからさっ!!」

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参加者
峰連・要(凛紅・b00623)
篠田・春一(夕焼けの春空・b01474)
桜・楼心(桜花絢爛・b01574)
藤野・沙羅(華桃・b02062)
蒼間・夜刀(禍つ蛇・b02968)
江西・唯(橙陽照空・b03502)
瀬崎・直人(朝焼けの冬空・b03547)
梶原・玲紋(アトミックブレイン・b03595)
暁葉原・燵吉(炎塵・b04308)
鈴原・幸也(凪のてのひら・b06030)
柚菜・希兎(凛花・b07480)
花時丸・圭吾(断撃トリックスター・b10125)
泰風・水咲(惑わせる風花・b11450)
御嶺寺・結梨(花祈譚・b15464)
如月・李緒(蒼月風舞・b15541)
氷采・亮弥(青藍ヴィエチニー・b16836)
佐東・ひなた(ミズノモリ・b18388)
円・未都(藤風華想・b20117)
柊・千歳(流星ロケット・b21370)
鴛海・人魚(澪鎮め・b22474)
星海・業(魂風に舞う翼・b22539)
紫倉・古湖(夕陽色の憧憬・b22979)
イセリア・サガン(ハデヘン・b23192)
時雨・音々(玻璃の幻月影・b23295)
日月・穹(白怠華殻・b23856)
御園生・深夜(眠りも深き・b24546)
大羽・輝流(闇夜を照らす琥珀の月・b25702)
大羽・雷人(ライトニングスカーレット・b25940)
神野・零(禮禮たる月を抱く夜・b25963)
ユエ・レイン(白の翼と銀の尾と・b27417)
奥岡・舞夜(瞬寐日隣・b27921)
獅堂・荒十朗(闇纏う獅子拳王・b28983)
空籠・朔姫(滴る翠緑・b29274)
夏目・凛(暁彩・b29283)
ウィル・アルトリオス(灯志樹・b29569)
桐嶋・浅葱(夜明前迄・b31324)
深水・渉(真のほほん鋏角衆・b32656)
カイル・レヴァント(ストームブリンガー・b34461)
黒瀬・和彦(穹牙・b36106)
ヒュー・メイスフィールド(百万回生きたくも・b36152)
佐崎・日和子(春陰・b40270)
皇・紅蘭(シニカルムーン・b40928)
藤居・彩(エリアル・b41352)
浅木・紫(踏みたガール・b43216)
レテノール・キューアネウ(毒蛇公・b43330)
イェル・ベネヴォルメンテ(高校生真妖狐・b43964)
羽鳥・氷女(覇凍蒼姫・b45222)
関屋・智康(鳥の巣・b45724)
ハーヴェイ・マクミラン(サイコマニア・b46916)
花邑・ニル(ポプリポット・b46918)
スペルヴィア・スパーダ(月咎哮狼・b48362)
蔦夜・漣(冴霄・b48475)
石動・葛馬(ルサンチマンの檻・b50559)
リーゼロッテ・ルーデンドルフ(金荊姫・b51076)
宍戸・航汰(アルバトロス・b51953)
志水・みゆ(天空光の歌・b53832)
メイベル・ウェルズ(銀月卿・b54806)
燈・雨色(オレンジペコ・b56144)
ドロシー・ルドヴィカ(ピノチオ・b57988)
有朱・結衣(ペシェミニョン・b60236)
小栗・茲(電気羊は夢の中・b60945)
鈴鹿・小春(万彩の剣・b62229)
日日・わや(ルナティックインフェルノ・b63002)
若梅・戌彦(静寂囚人・b66842)
如月・久遠(迷宮組曲・b67802)
プルミナ・プルトリナ(美しき世界を守るために・b71182)
レン・グヴェンドリン(渡り鳥・b72083)
エルバート・ギールグッド(高校生妖狐・b73864)
ナッシュ・コール(高校生クルースニク・b73865)
四紀・更紗(番犬命の真狐・b74691)
七奈・七海(銀雨世界で生きる少女の一人・b74904)
桂・雪(ノットロンリー・b75753)
丹下・こはる(お日様色の夢・b76246)
七枷・十六夜(宵闇人形・b83023)
瑞羽・湊(暴風恋歌ロックソング・b84526)

NPC:石堂・武流(中学生真牙道忍者・bn0112)




<リプレイ>

 2013年――。

●新年〜椿庭〜
「……2、1っ、あっけましておめでとー!!」
 椿の蕾が薄らと色づきはじめる迎春の候、和風大食堂に改造された【椿庭】に高らかな歓声が響き渡った。音頭を取ったのは杯を掲げた団長の更紗である。自称『清楚な少女』だがその実態は――。
「今年もよろしくねっ! 皆と一緒に年越せて嬉しいわー!」
 ぱんぱかぱーん!
 鳴り響くクラッカー五連発。
「いったい幾つ持ってきたんだ?」
 呆れたように尋ねたのは、何故か顔に殴り傷を負った雪だ。
 聞けば数日前に河原で青春してきたのだという。彼らしいというか何というか、とにかくやることなすこと豪快な青年である。
「えへへー、まだまだたくさんあるのよっ! というかどうしたのその顔? 河原で青春?」
「なんや、男の勲章やな」
 首を傾げる更紗と久遠にひとつ頷いて、雪は事の次第を簡単に説明した。
「休み毎に旅行行ってた一般人のダチ連中にさ、アルティメット見学招待しつつ話したんだよ。んで、修学旅行停止の真実が主な理由で顔と腹にいいの食らってなー」
 雪はあっけらかんと笑って説明を終えた。。
「あの、お顔……痛く……ないんですか……?」
 豪快に笑えば笑うほど、頬が引きつれて鈍い痛みを伴うだろうに。
 雪は否、と首を横に振った。
「嬉しいのさ。ダチ連中に受け入れてもらえたのがな」
「へー。なんかいいな、そういうの」
 長い髪をそのまま背中に流して、湊は羨ましげに瞳を細める。今この時を大切に味わい尽くすかのように。この国を離れたら、瑞羽・湊は消える。
(「でも、いつかきっと帰ってくるよ」)
 卒業までの僅かな時間を、湊はこの場所で過ごしたいと願っている。もう残っている行事も少ないけれど、その全てを彼らと共に過ごせたらいいなと思っていた。
「私の夢は叶ったから、次は更紗の夢が叶うといいな」
 思うがままに口にすると、久遠が興味をひかれたように顔を上げる。
「なんや、更紗チャンの夢って?」
 頃合いに煮え立つ鍋をかき回しながら久遠が尋ねた。
 更紗の壮大な計画が今、明かされようとしている。
 彼女は誇らしげに胸を張ってその一端を語り始めた。
「今年からはねー、使役じゃないゴーストもホームステイで共同生活できる結社の提案とそれに伴うシステム構築の研究と普及を中心に活動してくのよー!」
 白菜をたっぷりと盛った器に柚ポン酢をかけながら、更紗は要点をかいつまんで言った。かつては決して共存できないと言われていたゴースト達も全てではないとはいえ、マヨイガで暮らす事ができるようになったのだ。
 いずれ、そうした制限すらなくせるかもしれない。
 いや、なくそうと努力するのと決めたのだ。この決意はそう簡単に覆すことはできない。更紗は真剣な顔で言い切った。
「あたし、本気なんだからー!」
「あぁ、いい夢やな。ホームステイ用の部屋増設は任しときや」
 面倒くさがりのくせに世話焼き。人間らしい矛盾を抱く久遠は鍋奉行を引き受けつつ、さらりと請け負った。
「ボクもな、人間とゴースト分け隔てなくもてなす商売がやりたいんや。欧州行って南米行って、土地ごとの建築文化学びながら除霊建築学を普及できたらええねんな」
 計画に合わせて指を折りながら語られる未来図。
「あと、建具技能士の実務歴も積まなあかんし……あ、あと可愛い嫁さんもらう」
 と、最後に真顔で付け足すものだからその場にいる全員が笑ってしまった。
「そんなこと言っちゃっていいのか? 有言不実行はカッコ悪いぞ」
 湊が挑戦的に言えば、久遠は腕を組んで胸を張る。
「男に二言はあらへん」
「ふふ……かっこいいです」
「ああ、夢はでかい方がいい」
「お、さすが雪クンよう分かっとる。李緒チャンは? やっぱお嫁さん志望なん?」
「えっ、そんな」
 かぁっと頬を赤く染めて、李緒ははぐらかすように視線を逸らした。
「その……私、臨床心理士になりたくて。これから色んな情報が公開されて、悩む人や困る人もいっぱいでてくると思うんです。そういう人たちの力になれたらなあ、って……おこがましいでしょうか?」
 不安げに瞳を揺らす李緒に、雪は首を横に振った。
 李緒はほっと胸をなで下ろして、けれど少し難しそうな顔で指先を唇に当てる。言うはたやすいが、前途は多難。けれど、それだけ叶え甲斐のある夢と言えた。
「でも、まずはバイトをしてお金を貯めないと、ですね……」
「そう、やっぱり先立つものがないとねっ! あとは協力者かしら。コネは金に勝る力だものっ。そして最後はやっぱり神頼み! みんな、お鍋食べ終わったらさっそく初詣に向かうわよー! ……あ、でもちゃんと雑炊まで食べるんだからっ」
 やはり年頃の少年少女。
 美味しいものは大好きです。
 最後は取り合い譲り合い、鍋が空になったところで出発の準備――鮮やかな色柄の振袖を纏いながら言い出したのは果たして誰だったのか。
 ――マヨイガ使えば、もう一回新年迎えられるんじゃない?
 マヨイガとは、それ自体がメガリス。今では日本各地にとどまらず欧州にも道が繋がっている。将来的にはもっとたくさんの場所と繋がる事も不可能ではないと考えられた。
「それ、ナイスアイディア! わお、あたしも行く―! 何回くらい新年迎えられるのかな?」
 マフラーを巻きつけながら、雪は考え込むように顎を撫でる。
「今は時差1回が限度かな。中国やら他やらに繋がる今後に期待?」
「中国か、ええね。楽しみやわ」
 久遠は親指を立て、真っ先に駆け出した。
「ほな、カウントダウン行こか!」
「あっ、ま、待って下さい……きゃっ」
「っと、大丈夫か?」
 晴れ着に足を取られた李緒に手を貸して、湊はしんしんと冷えた冬の空を見上げる。マヨイガを通じて踏んだ欧州の土は不思議な感慨を湊に抱かせた。
(「世界結界が消えたあとは、どんな新年を迎えるんだろうか……。それは、これからの私たちの仕事か」)
 頬を撫でるのは新たな風。
 めくるめく世界は次々と新しい年を迎えていく。
「みんなの夢、叶うといいですね」
 贅沢な新年めぐりの旅に微笑みをこぼして、李緒は仲間を振り返る。久遠は胸にこみ上げる温かい気持ちのままにただ頷いた。
(「あぁ、みんな進んでいくんやな」)
 いまこの時を出発点として、互いに違う道を歩んでいくのだ。
 夢。
 それは力。
 未来を切り開き、生き抜くためのエネルギーだ。想いが確かな力となることを椿庭の面子は誰もが知っている。だから、諦めない。また会える日まで、その時に胸を張って報告できるように一生懸命頑張ると自分に誓った。
 
●進路〜春陰〜
 日和子は寮の自室で一通の手紙と向き合っていた。
 桐月は構って欲しいのか、ずっと彼女の膝に顔をこすりつけている。暦の上では春といっても、二月の初めはまだ暖房が欠かせない。だが、日和子は別の事に気を取られていて、暖房のスイッチを入れ忘れていた。
 別の事――それは今朝方届いたこの手紙にほかならない。
 しん、と冷え切った部屋で日和子はようやく封筒をきった。中から出てきたのは数枚の便箋。見覚えのある綺麗な筆跡を見ているとなんだか、懐かしい匂いを感じた。
「私、高校は地元で通おうと思うの」
 そう言ったら、あの人は微笑みとも悲しみとも分からない顔でうつむいた。
 その返事が手紙で届いた。
 きっと、悩んで悩んでやっとまとめてくれたのだろう。
 日和子も色々と考えすぎて、もらった返事が意外だったのかそれとも心のどこかで分かっていたのか、もうよくわからない。
 手紙はあふれる想いをそのまま書き綴ったかのようにとりとめもなく、一度目を通して、それからもう一度読み返して要約したところ、『高校も学園がいいと思う』とのことだった。
「どうしようか、桐月」
 それは日和子が決めたことへの否定。
 ずっと自分を見守ってくれていた人が、思ってくれた結論。
 日和子の茫洋とした悩みなど素知らぬ顔で、桐月は膝の上によじのぼると主の頬をぺろぺろと舐め始めた。向こうの高校への願書はもう出してある。
「最後の決定のスイッチを押せるのは、私だけ……」
 やんちゃなケルベロスベビーを抱き上げて、日和子は悪戯っぽく笑った。
 がう、と桐月が吠える。
「もう、がうがうじゃなくて、しゃべれたらいいのにねお前」
 ため息が窓を曇らせて、そしてようやく、日和子は暖房の電源をONにした。

●エジプトにて〜渉〜
「渦子さーん、大丈夫ー!?」
 前々から思っていたのだが、もしかしたら自分って薄幸なのだろうか――。
 砂嵐に巻き込まれた渉は渦子さんと身を寄せ合いつつ、必死にやり過ごしている最中だった。さすがに慣れてはきたものの、商隊を組んでの移動が基本である砂漠の一人旅は想像以上にきついものがある。貯金を奮発して渦子さんと共にエジプトへ渡ってはや数ヶ月。今はトルコとの国境を漂流している。この後はそのまま東南に進路をとって中央アジアを巡るつもりだ。
 ざっと一年半はかかる、と見積もっている。
 エジプトでは神魔軍の事件後どうなったのか、自分の目で確かめなければ気が済まなかった。関係者としての責任感に突き動かされた渉は何とかその責務を果たして次の目的地を目指している。
(「新たな能力者や同じ蜘蛛族、使役ゴーストの隠れ里なんかが見つかればいいんだけど……」)
 それらと銀誓館を繋ぐ役目を果たせれば僥倖だ。
 めまぐるしく変わってゆく世界の中で置き去りにされる人が出ないように、一人でも一匹でも多くの能力者や使役ゴーストと組織を結ぶかすがいとなれたら本望である。
「それにしても、何だろう。何かが足りない気がする。渦子さん、どうしてだか分かるかな」
 自分の居場所探しも兼ねたこの旅も中盤に差し掛かって、未だ見つからない居場所が何なのか……渉はまだ雲を掴むような気分でいた。
 
●卒業旅行〜英国叙情〜
 私、柊千歳。お洒落が好き。ショッピングが好き。スイーツが好き。今を楽しむ至って普通の女子高生――だった。
 それはもう過去の話。
 飛行機を降りて異国の空港に降り立った千歳は「うーん」と猫のように背伸びをしてその空気を味わった。
「とうちゃーく! 我が愛しのイギリス。グランマには連絡してあるから、遠慮しないでいいんだよ古湖」
 どこかそわそわしている古湖の肩を叩いて片目をつむる。ホテルではなく、そこで暮らしている人の家にお邪魔する。ホームステイのような旅だ。それでなくても古湖はイギリスが初めてで、さっきからきょろきょろと落ち着かなさげに辺りを見回している。
 と、黄色と白のツートンカラーが鮮やかな新幹線のような列車がホームに滑り込んできた。
 それまで子犬のようにありとあらゆるものに興味を示していた古湖は、その途端、ぱっと駆け出して車体に近寄っていた。
「うっわ、これ乗んの!? 映画とかで見たことある列車だ」
「ふっふっふ、やっぱこれ乗らないとね。ちゃーんと予約しといたのだ!」
 何を隠そう、ユーロスター。
 ドーバー海峡を通りイギリスとヨーロッパを結ぶ高速鉄道はこのロンドンが始発となる。わくわくと席に乗り込んだ古湖は窓側に座って流れる景色にさっそく目を奪われた。
「すっげぇ、はやい! あ、あれなに? 時計塔みたいな……あっ、もう見えなくなっちゃった」
「あれが噂のビックベン、エリザベス・タワーだね。ウェストミンスター宮殿にくっついてる大時計。日本で言うと国会議事堂みたいな?」
「さすがイギリス、そんなとこまでお洒落だぜ……!」
 古湖は満足したようにほうっと息をついて、席に座り直した。
「千歳の故郷ってわけじゃないんだっけ?」
「うん。でも、昔はよく行ったんだーカワイイおうちだよ!」
「へぇー、早く見てェなー」
 千歳は身振りを加え、庭の広さだとか居間の居心地の良さだとかを事細かに説明する。古湖の胸中にカントリー風の屋敷が描かれた。そこでのんびりと編み物をしているおばあさんの姿を想像して、胸がときめく。
「千歳のばーちゃん……グランマってどんなひと?」
「へへ、髪はアタシと一緒のブロンドー」
 自慢げに笑って、千歳は結わえた髪を両手につまんでみせた。
 クオーター離れした金髪翠瞳はグランマその人から譲り受けた色彩である。ちなみに彼女は優秀な魔女でもあったのだが、それはここだけの話だ。
 へぇ、と古湖は少年のような仕草で頷いた。
「千歳と一緒なら絶対キレイだろうな」
「つってももう年だからアッシュブロンドって感じよ?」
 それでも、期待しないでねとは言わない。
 だって本当に自慢のグランマなのだ。
「早く会いたいな」
「私も早く会わせたい。グランマもね、友達連れて行くって言ったら嬉しそうだったよ」
「ほんと? グランマとも仲良くなれたらイイなぁ」
 歳月が流れゆくように窓の外の景色も途切れず進み続ける。日本と同じ島国、イギリス。首都ロンドンの華やかさとは対照的に郊外は牧歌的な美しさを残している。
 高速で駆ける列車に並んで乗り込んだ少女――否、女性が二人。仲の良さは一級品。楽しげな雰囲気に誘われて現地の男連中が声をかけるも、千歳はさらりと笑みひとつで追っ払う。
「千歳、慣れてんの?」
「ヒ・ミ・ツ」
 頼れる親友に古湖は感心されっ放しの旅路であった。

●新婚生活〜紅と花〜
 春も曙。
 けれど、愛しき新妻は二度寝の甘やかなまどろみすら許してくれない。
「ねぇねぇ、起きてよ!」
「んー……もうちょっとだけ……」
「いい天気だよ! 早く着替えて」
 柚菜希兎――今は峰連希兎という。まだ少女らしさを残した彼女はベッドで蓑虫になっている要をゆさゆさと容赦なく揺すった。
 無事就職して朝から晩まで仕事に没頭する日々。少しはたくましくなったかと思えば、寝起きの悪さは変わりません。それでも何とか起き出してきた要はパジャマのボタンを外しながら大きなあくびをもらした。
「キト……鬼っ……」
 残業の疲れが抜けきらない頭はぼんやりしている。
 のったらのったら着替える要を待っていられず、希兎はまだ上着に袖を通しかけている要の腕をぐいっと引いて庭に出た。
 ――途端に降り注ぐ、春の日差し。
 ぽかぽかしている。
 一瞬、眩しさに目をかざした要はけれど、すぐに記憶と違う庭の様子に気づいて目を見開いた。
 元気を分け与えるように熱い力を放つ紅の花――アルストロメリア、ハナミズキ、マリーゴールド。
 精一杯輝く可憐な黄の花――チューリップ、ジャスミン、カザニア。
 他にも白、青、紫。色とりどりの花が庭の至るところで咲いている。要は目を瞬かせて希兎を振り返った。
「庭、こんなに花あったっけ?」
「へへ、疲れてる要に元気になってほしくて……あとちょっと構って欲しくて……お休みに合わせてガーデニング頑張っちゃった」
 真ん中辺りの台詞は小さすぎてよく聞き取れなかった。
 希兎は指先と指先をちょんとくっつけて、照れ笑いのような表情を浮かべている。
「頑張っちゃったって、これ、ちょっと頑張っただけでできるもの?」
 要は希兎の手を取って庭の中を歩いた。
 鼻先を甘い花の匂いがくすぐる。鉢植えは素焼きや小さなバケツ型の可愛らしデザインで、庭だけではなく窓辺や台所にも飾ってあった。
 自然と、それらを世話する希兎の姿が脳裏をよぎる。
 朝、要を送り出してから家事を済ませ、鼻歌を歌いながら庭に躍り出る希兎。花が大好きだった少女はきっと愛しげな眼差しで手ずから花々を選び、植え、水をやっていたに違いない。
「どう、かな?」
「ん、凄く綺麗だ」
 後ろから希兎を抱きしめて、頷く。
 ――それに、嬉しげに頬を染めるキトの笑顔が何よりも可愛らしい。
「私じゃなくて、花見なきゃ」
「いやー、花もキレイなんだけどさ。やっぱキトが一番可愛い。少しは花の名前覚えたと思うけど……これだけ咲いてると難しいな」
「じゃあ、お花見しながら教えてあげる。お弁当作ったの。今持ってくるね!」
 仕事で疲れている要を癒してあげたい。
 可愛らしい使命感を抱いて、希兎は家の中に戻った。少しは元気になった要の顔を見てほっと胸を撫で下ろす。
(「でもさ、私より眠そうな要のがずっとずっと可愛いよ」)
 自分が他人にどう見えているのかまったく無自覚なところ、要は昔から変わらない。ちら、と庭を見ると要はしゃがみこんで背の低い一輪草の花びらをつん、と指先で突いていた。
「っ……」
 かわいい。
 ああもう、完敗だと希兎は天を仰いだ。
 籍を入れて夫婦になってからまだ一年。
 変わらないところもあれば、きっと変わったところもある。けれどそうやって新しい日々を紡いでいけることが何よりも嬉しくて、尊い気がする。
(「まぁ何年経ってもキトが大好きな事は変わらない自信あるけどね」)
 縁側で二人、並んでサンドイッチを頬張りながらいろいろな事を話した。大半は希兎による花の講演で、要の知っている花の名前がまた増えた。
「キトはほんと、変わらないなぁ」
「変わらないよ。好きなものを愛しいと思う気持ちは、きっとこれからも変わらないって自信があるよ!」
 それは奇しくも――いや、当たり前にも、か――要が思っていたのと同じことで、つい吹き出してしまった。ああ、僕は――いや、俺はこんな希兎だから愛してしまったに違いない。
「今日はどうもありがとう、キト」
 肩を抱き寄せて、額に口づけを降らす。
 希兎はやはり満面の笑顔で要をぎゅっと抱きしめた。愛で満たされた体を駆り立て、また明日も仕事に出かける。頑張ろう、この笑顔を守るために。

●誕生日〜ペシェミニョン〜
 2013年6月10日、結衣はぽかんと口を開けてその店の看板を見上げていた。今日でちょうど二十歳になる、年頃の女――のはず――である。
「どした、結衣?」
「えっ、だって、なんかすごいお洒落っぽい雰囲気のお店……!」
 結衣が焦るのも当然で、そこはいつも奢ってもらうようなファミレスでも喫茶店でもなく、れっきとしたバーなのであった。
 もちろん、時間も夜。
 ネオン瞬く都会の街は仕事帰りのサラリーマンや遊びに繰り出す大学生、それにデートらしきカップルが大半を占めている。知らない人波の中で、結衣ははぐれないように唯の手をしっかりと握りしめて歩いた。
「とうとう結衣も成人か……」
 席に案内されるなり、唯は感慨深げに呟いた。
「出会ってから何年だ? もう数えるのも忘れちまうくれぇ長く経った気がするな」
「うん。なんだかあっという間だったね」
 小さく頷くと、義兄との思い出が次々と脳裏に蘇る。初めて出会った日の事、二人で遊びに出かけた時の事……本当に数え切れないほどの記憶と時間を共有してきた。
 唯はテーブルに頬杖をついて、成長した結衣を眺める。
「こんな可愛い義妹が持てた俺はほんと幸せもんだな」
「それはこっちの台詞だよ! こうしてお兄ちゃんとお酒が飲めるなんて嬉しいけど、なんだか不思議な気分……」
 手元のメニューを開いた結衣は目を瞬いてから、首を傾げた。
 そこには初めて見るカクテルやワインの名前がずらりと並んでいる。まるで外国の女優みたいに綺麗なカタカナがアルファベットの上に添えてあった。
「カシス、カルーア……ジン、あ、ウイスキーは知ってるよ」
「そりゃ渋いな。飲みやすいのなら、牛乳ベースのカクテルなんかどうだ?」
 言って、唯は幾つかのカクテル名を読み上げる。
「へー、ミルクが入ってるの?」
「そ。キツかったらミルク多めで頼んでさ」
「うん。そうしてみる」
「俺はどうすっかなー」
 しばらく考えた末、唯は自分の分と結衣の分の注文をボーイに頼んだ。「かしこまりました」と頭を下げてから颯爽とカウンターの向こうに消える。結衣はバーテンダーがシェイカーを操るさまを興味ありげに眺めていた。
 ときおり、唯を振り返って「すごいね」と囁く。
 すると対抗心がむくむくと頭をもたげ、唯は彼女にひとつの約束をした。
「いつか俺が店持ったら、結衣好みのカクテル作ってやっからな」
「ほんとに? ボク、楽しみにしてるよ。それまでにお酒の味わかるようになっとかなきゃね」
 話している間に注文した酒が運ばれてくる。細いストローのついたカルーアミルクは底の方にコーヒー・リキュールが沈殿してミルクとの綺麗な二層を描いた。
「……あまい」
 ほんのちょっぴりを味わって、大切そうに感想を告げる。
「でも、少しほろ苦い。半分は子供の味、半分は大人の味って感じだね」
 義妹が大人になっていくのを、唯は嬉しそうに頬杖をついたまま見守っている。それが唯の役目、この距離感を愛する義兄の矜持だった。

●promiss〜七年の歳月〜
 店を閉めた後、手ずから入れたコーヒーを差し出すと水咲は微笑んでその香りを楽しんだ。二人で開いた喫茶店はこじんまりとしていながらも清潔で、彼女の趣味で集められた小品が控えめに飾られている。
 主の片割れである燵吉はその日、どこか気もそぞろにそわそわしていた。「どうしたの?」と水咲が訪ねても「いや」と首を振るばかり。いつも通りの時間に閉店の看板を出して、一休みついた後のことだった。
「7年って、凄い話だよな」
 唐突に燵吉が口を開いた。
 その瞳はどこかぼんやりと窓の外に注がれている。
 水咲は鷹揚に小首を傾げてから、小さく微笑んで相槌をうった。
「そうね、7年になるのよね……あっという間だったわね」
 そして、彼と同じ場所を見つめるようにその視線をたどる。擦れた子供のようでいて、ひたむきな強さを持つこの青年の隣に立つようになってから、もう7年――……。
 長いようで短い日々だった。
 思い返せば大切な記憶は絶えねど、当たり前になり過ぎて指の間をこぼれていったさりげない日常も数限りない。
「あのな、俺、お前に頷いて貰った日の事、今でもよく覚えてる」
 コドモだったのだ。
 言い訳してしまえば、そんな事になる。
 水咲の顔が真っ直ぐに見れないのは情けなさと、不甲斐なさ。ごまかすように髪をかきむしって、少しぬるまったコーヒーを一口飲んだ。
「笑うなよ」
「だって、どうしたの? あなたらしくないわ」
 水咲は女の強かさで微笑んだ。
 舌打ちして、燵吉は向かいに座る水咲の髪をひと房撫でる。
「分かってる。あん時はまだ、俺は一人じゃ何も出来ないガキだった。でも、今は違った意味で独りじゃなくていいと思ってる」
 指先を簡単に逃げてゆく細くしなやかな水咲の髪。
「お前と二人だからこそ、俺は歩んでいける」
 もう戻れない。
 何もできないくせにひとりで突っ張っていたあの時代には。
 ただひとりだけ、と定めた女は男の手を引き止めて呟いた。軽く手を添えて頼もしい、一人前の男になってゆくその手の甲に触れる。
「私、思うのよ。やっぱりここが、私の居場所だなって。これからもずっと、永遠に」
 胸にこみ上げる感情の名を、二人は知っていた。
 ほんの僅かな時間をただ見つめ合うことで過ごしてから、燵吉は大切にしまっておいた小箱を取り出した。数センチ四方の、手のひらに収まってしまうくらいの――蓋を開けると輝くリングが顔を見せる。
「俺と、結婚してくれ」
 直情的な彼らしい、シンプルな言葉が飾り気のない指輪とリンクする。
 水咲は目を閉じてその、一生に一度しか聞けない言葉を胸に刻み込んだ。世界が変わろうと何も怖くない。この小さな、けれど満たされた空間は永遠に護られてゆくのだろうから。
 返事は確かな頷きひとつだけ。
 厳かな儀式のように、互いに手をとり、新しい指輪を交換する。
「これから先の道も、あなたと歩み続けることを誓います」
 水咲の穏やかな声。
「俺は、俺の一生を掛けて、お前を幸せにする――……水咲」
 燵吉の偽り無い眼差し。
 時は過ぎようとも、心はこの日を覚えている。色褪せず、朽ちず、枯れず。この日咲いた花は死がふたりをわかつまで決して、散りはしない。
 
●1年目の結婚式〜紅と花〜
 2013年6月某日快晴――。
 タキシードに身を包んだ要の動悸はさっきから激しさを増すばかりで困る。
(「だって」)
 自分も結構な男前に仕上がっているのだが、そんなことはどうでもいい。
(「だって、キトが」)
 集まってくれた友人たちも鼻の下を伸ばしているに違いないと勝手に考えている。
「要?」
 昔より落ち着いた声色と呼び名で、希兎が――真白のドレスに身を包んだ妻が、要を見上げている。少し緊張しているのか、表情は強ばっているが瞳は輝いていた。憧れのウェディングドレスだ。結婚してから一年目、身内だけを集めた挙式が今日行われる。
(「キトが、可愛い上に綺麗すぎて眩しいっ……どうしよう泣いちゃうかもしれない」)
 そんな溢れ出すとやばい感情を抑えているせいで表向きは大人らしく落ち着いた顔の要だったが、どうも希兎にはお見通しだったらしい。
「いくつになっても変わらないよね、要」
「だ……駄目?」
「ううん。そういうところが好きです」
 要にしっかりと手を握ってもらった希兎は安心したように表情を崩した。「おめでとう」と降り注ぐ拍手と祝いの言葉に包まれて二人は赤い絨毯の上を歩いてゆく。
 記憶を失った少年と、猫のように捨てられた少女。
 いつしか惹かれ合い愛し合った結末にこんな未来が待っていただなんて、あの日あの時、いったい誰に予想できただろうか。
「俺は、わかってたような気がするよ」
 一歩、一歩を踏みしめながら要はいま、未来を見つめている。
 前を向いたまま、希兎はほんの僅かに頷いた。
 長かったような短かったような道のり。
 でも、これから歩く未来の方がきっとずっと長いのだろう。
「これからもずっとずっと一緒にいようね」
「うん。離さないよ、絶対にさ」
 それほど広くない教会には二人を祝福する友人たちが駆けつけている。彼らの前で、要と希兎は誓った。――永遠の愛を。
(「俺はキトをずっと愛します。そして、護り抜きます!」)
 だから神様。
 願わくばこの手が永遠に解かれることのないように。
 華奢な指先に指輪を通して、要は微笑む。
 希兎は少し難儀しつつも、ようやく要の指に指輪をはめ込んだ。ベールを上げれば、この世のものとは思えないほどに美しく着飾った希兎の視線が要を捉える。
 ――幸せだ。
 それしか言えない、胸の中が薄紅色の気体で満たされてしまったような高揚感。
「…………」
 万感の思いで希兎は誓いのキスを受けた。
 一瞬は永遠。
 互いに閉じていたまぶたを開いた時、申し合わせたかのように小さく笑いあった。

●新居にて〜荒十朗とカイルの場合〜
 最近、カイルの調子が良くないようだ――。
 鎌倉の一軒家を新居と定めた荒十朗はどうもこのところ、妻の顔色がよくない事を憂いていた。二人で金を出し合い(大半はカイルの貯金であったが)慎ましやかながら満たされた日々を送っていた矢先である。
「……不安だ」
 外見はこれ以上ないほどの美丈夫が眉間に皺を寄せて言うのだから、余計に大事めいた響きがある。
 環境の変化が原因か――いや、自分が言うのもなんだがカイルは頼もしい女だ。その程度でへこたれるとは思えない。なら、新居の購入やら引越しやらで忙しかったせいだろうか――確かにこのところバタバタしていたのは否めなかった。
 荒十朗はソファに座った格好で首を傾げた。心当たりが一つないわけではないが、それはあくまで可能性の話であるからひとまず置いておく事にする。隣に身を寄せるカイルは今日も愛しく、夫のことを「コウ」と呼んだ。
「なんだ」
「その……聞いて欲しい話があるんだ」
 体調の優れない自分に付き合って傍にいてくれる温もりに感謝しつつ、カイルは物思いに耽った余韻を振り払わぬまま言った。荒十朗の肩はたくましく、女性にしては大柄なカイルも比べると華奢に見えてしまう。
「どうした、改まって」
 唐突な話し振りに荒十朗がやや意外そうな顔をする。
 それを予期していたカイルは、大切な話なのだと声をひそめた。
「……私の……本当の名前の話だ。カイルっていうのが男性の名前なのはとうに気づいているだろう……?」
 カイル・レヴァント。
 今は獅堂カイルという。
 彼女が言う通り、「カイル」というのは一般的に男の名前として使用される。だが、それが雄々しく戦う魔剣士の彼女によく似合っていたため違和感というほどのものは感じなかった。
 だが、今この時になってカイルが口を開いた理由――それは、彼女の体調が優れない事とも繋がるのだろう。荒十朗は深く頷いて彼女の話に耳を傾け始めた。
「私はずっと、とても人に話せない生き方をしてきた自分が嫌いで……名を名乗らず生きてきた」
 微かに乾いた声色からは、今はもう色あせた過去に生きるカイルの姿が想起される。砂塵のなか、血に塗れて一日を生き抜く獣のような。そんなイメージがふと荒十朗の脳裏を過ぎった。
 カイルの人生を変えたのはひとりの剣士だった。
 その男の名が、カイル。彼女の剣の師である。
「彼は亡くなる時、カイルの名を私にくれた。昔の自分と決別しようとずっと、その名を名乗ってきたわけだ」
 そこでカイルは小さく笑った。
「私は……本当に嫌だったんだな。私という存在が。消えない過去が」
「カイル……」
 無意識のうちに呟いた荒十朗の唇にカイルは自分の人差し指をあてる。
「メリッサだ」
 久方ぶりに名乗るせいで、少しだけ舌がもつれた。
「……メリッサ」
 そう、とカイル――否、メリッサが微笑む。
「コウが私を受け入れて、好きになってくれたから。私も自分を好きになれるよう努力しようと思う。愛するお前に誇れる自分であるように」
 言葉尻は口づけに消えた。
 荒十朗はカイルの腰を抱き寄せ、深く唇を合わせる。ゆっくりと時間をかけて互いの息すら飲み込むほどに熱く――。
「覚えていてくれるか、コウ……荒十朗。この名前も」
「ああ。メリッサ……カイル……最愛の者の名前だ。どちらも決して忘れまい」
 すると、カイルは安心したように相好を崩して荒十朗の手を己の腹に導いた。
「なら、次は先の話だ。この子の名前は……どうする?」
 だが、こちらについては荒十朗は即答できなかった。やはり、という得心とまさか、という驚きが混在している。しばしの間迷った末、嬉しさと照れがないまぜになった顔で遠慮がちに新たな生命を宿した場所をさする。
「そうだな……名前は二人で一緒に考えていこう」
「男の子だと思う、それとも女の子?」
「……うむ、どちらが生まれても良いように、両方の名前を」
 歴戦の強者も初子を宿した妻を前にしては初々しい父親となるしかない。やけに神妙な顔で頷くのがおかしくて、カイルはくすくすと笑みをこぼした。

●道は続く〜親友たち〜
 桜が舞っている――……。
 だが、七海は彼女らしいきょとんとした顔で制服のスカートの裾をつまんでいた。卒業式という事で初めて袖を通した学園指定の中学校制服なのだが……その、丈がかなり短い。
「初めて着ましたが、かなりミニですよね、これ」
「ん」
 こはるも真似してスカートをひらりしてみる。
 とん、たん、リズミカルに跳ねるだけで舞い散る桜のはなびらのようにひらひらと翻るのだ。着るのは最初で最後。そう思うと、途端に何か惜しい気持ちになる。
「あ、武流――」
 知り合いを見かけて手を振ると、あちらも元気に手を振り返してくれた。
「男子高校生の制服なら来てたんですけどねー……と、こはるさんお知り合いですか?」
 どこ、と七海が見回した時にはもう、同じ制服に身を包んだ人波に消えてしまった後だった。中学校の卒業式。名残惜しんで泣く者、笑う者、人それぞれ百花繚乱の門出である。
 七海とこはるはもちろん、このまま高等部へ進学する。だから別れの寂しさもあまりなく、こはるは終わってしまった式よりももらった筒の方が気になるようだった。
「七海、ほらほら」
 ぽん、ぽん。
 卒業証書の入った筒を叩くと軽快な音がする。
 ぽん、ぽぽぽんっ。
「あはは。わたし、この音好き」
「この音です?」
 小首を傾げ、七海も見よう見まねでやってみた。
 ぽん、ぽん。
「ほほう」
 ぽん、ぽん。
「……ちょっと面白い音ですね」
「でしょ。……あ」
 ふと、違う音に反応したこはるが顔をあげた。
 向こうで同い年のグループが記念写真を撮っている。
「七海、写真。写真もとろー」
「任せてください。ちゃんとカメラ持ってきました」
 じゃん、と七海がデジカメを取り出すと、こはるはまるで手品を見た時のように拍手した。最初にこはるを撮って、それから今度はこはるが七海を撮って、最後にクラスメイトに頼んで二人一緒のも撮ってもらう。
「現像したら、ちょうだいね」
「もちろんです」
「クラスがかわっちゃっても、またあそんでね」
「もちろんですそのに。そうだ、高校に入りましたら受験前に旅行に行きません? 海とかせっかくですし」
「海? うん、やたー」
 二人は仲良く手を繋いで校門を抜ける。春の嵐に髪をなぶられて、一瞬息ができないかと思った。
 卒業式。
 なんだか、とくべつなひびき。
「七海、卒業おめでとう」
「こはるさ……こはるも卒業、おめでとう」
 少しだけ大人になった気がする呼びかけに目を瞬かせてから、こはるはへらりと笑った。名前の通り春のような、少しねむったげだけれどあたたかい微笑みだった。

●巣立ち〜ライトニングスカーレット〜
「卒業かー」
 桜の薄紅が目に眩しい三月のよき日。
 似合わない似合わないと常々思っていた高校制服も今日で最後だと思うと名残惜しい。ほとんど箪笥の奥にしまわれきりだった黒の詰襟は今しか役目を謳歌できぬとばかりに主張している。改めて見ても、着る人を選ぶ制服である。
「改造する人が多い気持ちがちょっとかなり分かるよね……」
 ため息をついて、雷人は卒業証書の入った筒を手に校舎を振り返った。
 銀誓館学園。
 全てが始まった場所、だ。
 たくさんの偶然が重なった。数え切れない縁が紡がれ、運命の糸が繋がった。
「本当にいろいろあったけど、僕は銀誓館の一員なことを本当に誇りに思うよ」
 これからもよろしくね、という意味を込めて敬礼する。
 もし一つでも歯車が狂っていたらきっと、今日という日はこなかったのだろう。銀誓館だから、この場所だから出来た事や出会えた仲間たちがいる。
 雷人が導かれたのもそうした運命のひとつだったのだ。
 唇の端をかすかに笑みのかたちに変えて、雷人は卒業式の間に凝り固まった筋肉をほぐすように伸びをした。
「これからも何かあるごとに顔を出すんだろうし、そう考えるとここを離れるっていう実感がわかないや」
 さようなら、はしっくりこない。
「いままで本当にありがとう。――じゃあ、またね。銀誓館」

●卒業〜and〜
「学生生活は本当に色々あったわね……」
 万感の思いを胸に紫は改めて、卒業という区切りの重みを味わった。それも同時にかねてより投稿していた漫画の受賞が知らされた日でもある。
「いい事倍々ね」
 この冷静さが紫の紫たる所以だろう。
 既に彼女はこれから先の事を考えている。なにしろあの漫画は紫の能力者としての実体験を元にしたものだから、ああした体験が一般的なものになるとなると戦略とコンセプトを練り直す必要があるだろう。
 ふむ、と腕を組んでしばしの間物思いに耽る。
「今後、その辺の話はお仕事ものとしての側面が大きくなってくるのかしら……?」
 バトルものと職業ものでは対象層がかなり異なってくる。さっそくプロットを考えて担当さんと相談しなければ、と紫は既に卒業式の余韻など振り払った様子で歩き出した。 

 2014年――

●結婚式〜桜桃〜
 レースとフリルをふんだんにあしらった、童話の世界から抜け出してきたかのような純白のウェディングドレス。細い肩を出して、髪は綺麗に結い上げる。肘まで隠れる手袋に持っているのは頑張って作った世界にただひとつのブーケ。
 今日、藤野沙羅という女の子は桜沙羅という女性になる。
 支度を手伝ってくれた友達はみんな綺麗だと褒めてくれたけれど、沙羅の緊張は解けるどころか次第に高まっていくかのようだ。
(「楼心さんに綺麗って思ってもらえるかな」)
 結局のところ、沙羅の不安と期待は全て楼心だけに収束される。
 子供の頃からこの日を楽しみにしていたというのに、いざ始まってしまうと惜しい気持ちが入り混じるから不思議だ。遠足は準備している時が一番楽しい、だなんてそんな事と比べたら子供っぽいと笑われてしまうかもしれないけれど――……。
 一方で、新郎もまた緊張を隠せないまま新婦の登場を待っていた。
「だ、大丈夫よ。ちゃんとリハーサルしてきたんだから」
 からかう友人に拗ねた返事をしつつ、やきもきしていたのもいまは昔――バージンロードを歩いて来る沙羅の姿が見えた途端、楼心は文字通り言葉を失った。
「……沙羅ちゃん、凄く綺麗よ」
 優しく微笑んで言ったつもりが、もしかしたら恍惚のままつぶやいてしまったのかもしれない。
 艷やかなベールの下で沙羅の瞳が潤んだように見開き、桜色に染められた唇が喜びのかたちに変わった。緊張と不安が幸せに変わったのはまさにこの瞬間だったと思う。
 新郎と新婦は腕を組んで一歩ずつ、赤い絨毯の上を進んだ。
 一歩ずつ、ゆっくりとけれど確かに夢が叶ってゆく。
(「夢? ううん、現実……だよ沙羅」)
 誓いの言葉を交わして、楼心は沙羅を抱き寄せると優しいキスを贈った。柔らかで甘いキスだ。夢見心地のまま退場しようとした時、不意に沙羅の体が宙に浮いた。
「えっ、わっ……」
 驚いて、近くにあった楼心の首にしがみつく。
 つまり、抱き上げられているのだ沙羅は。
「楼心さんっ」
「ふふ、夢だったのよね。花嫁さんをお姫様だっこするの」
 台詞を先に取られてしまった沙羅はほんの少しだけ頬をふくらませてから、けれどすぐに機嫌を直して楼心の頬に唇を寄せた。
「一生傍にいてね。私だけのお嫁さん」
「はい、ずっとずっとおそばにいますっ」
 あまりにも幸福な時間の中にいる二人へと降り注ぐライスシャワー。沙羅は集まってくれた身内や友人たちに手を振ってから、大きく腕を伸ばしてブーケを放り投げる。
 幸せはきっと、次の幸せを呼んでくれるから。
 次の花嫁候補の手元へと、ピンク色の花々をあしらったブーケはまるでハートのように輝きながら飛び込んでいった。

●誓約〜双つ色〜
「あの人誰かな。かっこいい」
「うちの大学の人じゃないよね?」
 ひそひそと、通り過ぎる女学生の噂話が風に乗って亮弥の耳を撫でる。少々居心地の悪さを覚えて、もう少し目立たない場所はないかと周りを見渡した。
(「だが、彼女を見つけられなくても困るな……」)
 同じような袴姿の中から愛しい姿を見つけ出すなど造作もない自信はあったが、それも見える場所にいなければ無理な相談である。結果、亮弥は幾人もの好奇の視線にさらされながらも校門からほど近い桜の樹の下に佇み続けた。
 降りゆく桜吹雪に感慨深い思いを抱きながら――。
「あさ」
 と、目的の人を見つけてその名を呼ぶ。
 相手はすぐに気づいてぱっと笑顔を浮かべると、袴の裾を気にしながらそれでも小走りで駆け寄ってくれた。結い上げた黒髪、春に映える瞳の色まで可憐な彼の大切な人――藤居彩。
「亮弥……!」
「大学卒業おめでとう。その姿も綺麗だな、よく似合っている」
「有難う。わざわざ迎えに来てくれたの?」
「ああ、待ちきれなくて」
 腕に抱き縋るように寄り添う彩を連れて、桜並木の路を行く。
「話があるんだ、あさ。聞いてくれるだろうか」
 逸る気持ちからか、亮弥の口調はいつもよりやや早い。人垣から離れ、ようやく二人きりになれたところで彼は小さな箱を取り出した。彩は小さく目を見開いて、その蓋が開かれるのを見る。
 中には指輪が収まっていた。
 思わず口元を両手で覆い、亮弥の顔を間近で見上げる。
「……以前から話していただろう? お前が大学を卒業したら結婚して欲しい、と。俺の生涯の伴侶はお前以外考えられん」
 真っ直ぐな言葉は彩の心に染み入るというより、確かな衝撃をもって貫いた。
「亮弥、本当、に?」
 反射で紡いだ問いかけに亮弥は頷き、彩の薬指に――左のそこに銀の環を嵌める。まるで幻のような一瞬だった。人には決して言えないけれど、こんな未来をいったい幾度夢見たことだろう。想うのはたやすい。だからこそ、もし、という不安はほんの一抹ですらこわかった。
「俺は将来、医療研究の仕事の都合上いつかはドイツに渡るだろう。それでも、ずっと俺と一緒に居てくれないか?」
 亮弥の申し出はどこまでも公平であり、真摯であった。
 彩の心などとうの昔から知っているだろうに、敢えてなお、驕りの欠片もなく問いかける。彩は真っ直ぐに亮弥を見上げて、「はい」と応えた。
 亮弥――亮弥。
 大好き。
 この気持を伝えるためならば、わたしはいま、全ての真実をもって言える。
「貴方のお嫁さんにして、下さい」
 どこへでもついていこう。
(「だって、貴方の隣こそがわたしの居場所だから」)
 寄り添い、桜吹雪に隠されて確かに互いを抱きしめ合う。思えば自分の日常にはいつも彩がいたのだと、薄紅の嵐の中で亮弥は至上の幸福に身を委ねた。

●告白〜サイコムーン〜
 ハーヴェイはその日、朝からずっと心ここにあらずの状態だった。
 理由はただひとつ――決心をしたのだ。
「紅蘭か? その……話があるので、少し付き合ってもらえないだろうか」
 などと内容をはぐらかして、紅蘭を呼び出したまではいい。待ち合わせ場所には三十分以上も早く着いてしまい、ちらちらと時計を確かめながら心を落ち着けようと努力する。
(「今更、こんなに緊張するなんて我ながら意外で笑える……」)
 ハーヴェイ・マクミラン。
 『刹那的快楽主義者』但し「色は好むが下品なエロは嫌い」。普通に話しているのになぜか口説き文句になっている「天然口説き魔」――長年掲げてきた設定が泣くではないか。
「なぜ、こんなにも鼓動が激しいのだ……ただ一言、伝えるだけなのに」
「なにを?」
「は――」
 突然声をかけられて、ハーヴェイは息を飲み込み振り返る。
 雑踏を背景に紅蘭がきょとんとした顔で立っていた。
「どうしたのハーヴェイさん。なんだか妙に緊張気味、ね?」
 いまだ、言うんだ。
「えっと、その……君とは付き合いが長いが、これからもずっと側にいて欲しいというか、未来を共に過ごしたいというか…つまり、恋人を活性化していいだろうか?」
 紅蘭の睫毛がぱしぱしと音を立てるかのように、瞬きを繰り返した。
「それって告白?」
「……違うのか?」
 いまいち、本人も自信がないらしい。
 紅蘭は口元に手を寄せて「つまり、えっと……」「そういうこと、よね??」などとひとりごちている。空白の数瞬を打ち砕いたのはナイトメアの一撃――白馬の前足に蹴り飛ばされたハーヴェイは強かに腰を打ち付けてアスファルトの上に転がった。
「ぐはっ……」
「あっ、ご、ごめんなさいついうっかり……!」
 びっくりしたのと恥ずかしいのとで、アビリティを発動してしまったのだ。
「大丈夫、すぐに白燐奏甲かけてあげるから」
「紅蘭」
「なに?」
「返事をもらっていないのだが」
「!!」
 頭から流れる血を手で抑え、真剣な顔で迫る美形というのは妙な凄みがある。ざわざわと二人の周りを人垣が囲み始めるがハーヴェイの目には入らないようだ。つい先日まで、そうした人の目に自分たちがどう映っているのかを紅蘭は気にしていた。
 まさか、それがこんな形で決着をつける日がくるなんて想像もしていなかった――。
「そりゃ、私以外に誰がハーヴェイさんに突っ込みを入れるのよ……じゃなくて、本当に私でいいの?」
 変な答えだ、と自分も思った。
 告白されているのだから答えは「イエス」か「ノー」の二択であるべきだろう。
 だが、ハーヴェイは首を縦に振る。
「もちろん。そういう君だから側にいたいんだ」
 細い手を取り、握り締めた。
 真摯な告白もだが、流血沙汰というのがらしいのかそれともらしくないのか。俯いて黙りこくった紅蘭の沈黙に拒否はない。
「紅蘭の答えは『イエス』だね」
 一度だけ、こくりと頷き直した。
「……それじゃ、恋人で活性化しておくわね」
 なんだか素直になりきれない返事みたいだ、と自嘲するとハーヴェイは微笑んで(余計なことを)言った。
「君のそういうところ、可愛くて好きだよ、私は」
「っ……、ばかっ」
 紅蘭の背後にまたしても白馬の幻影を見て、ハーヴェイは「どうどう」と彼女をなだめた。これ以上蹴られては命に関わる……!!
(「まあ、これが照れ隠しって言うこと、私は前っから気が付いてたけどね」)
 などと、紅蘭に聞かれたら今度こそ殺されそうなことを考えてしまうハーヴェイであった。

●儀式〜狼と姫〜
「だから、二年後だって言ったじゃないですか。出会ってから7年目ですよ」
「おかしいな……2015年の約束だとてっきり思っていたんだが……」
 首をひねるスペルヴィアと拗ねたように唇をとがらせる氷女。二人は今、桜の下で向き合っている。他には誰もいない桜吹雪の中で誓われる永遠の愛――。
 春の空は青くどこまでも晴れ渡る。
 二人でなら果てなく飛ぶことができるだろう、と心の底から信じられる。
「周りの友人たちは私達の関係に気づいていたでしょうけどね」
 やはり、ひとつの区切りとして形にしておきたいのだと氷女が言った。計画と言うほどのものはなかったが、場所とドレスを工面するのはそれなりに骨が折れた。
 何しろ182センチの花嫁である。
 ブーケを携えた氷女は最後の確認をするように、ひらり、と一回転してみせる。白い裾がふんわりと広がって満開の花を思わせた。
「どうですか?」
「……あぁ、綺麗だよ」
「よかった。スペルさんもウェディングドレス着ればよかったのに」
「……ただでさえ恥ずかしいのに、そのうえ純白のウェディングドレスなぞオレに似合うと思ってるのか?」
「はい」
「即答か」
「即答です」
 そも、口喧嘩でスペルヴィアが氷女に勝てるわけがなかった。
 渋々といった表情は完全に気恥かしさの裏返しだったが、それでも氷女をリードするように桜の下へと踏み出せば、幻想的な雰囲気に飲み込まれてゆく。
「さて、何時までも悶々としているよりはスパッと挙げてしまおう」
「なんですか、その嫌な事は早く終わらせてしまおう的な発想は」
「逆さ。その方が気楽で良いし……今のお前の姿を、他の者には余り見せたく無くて、な」
 スペルヴィアは観念したように言って、指輪を取り出した。
 この場には二人の他に誰もいない。
 誓いを尋ねる神父も介添人も、祝いに駆けつける人々も。ただ二人だけが桜吹雪に包まれている。
「いままで色々ありましたね」
 互いの指に指輪を嵌めながら、氷女は思い出すように言った。
「初めて出会った時の事、色々な戦いで肩を並べて戦った事。本当にたくさんのことがありました」
 そのひとつひとつが、今も鮮明に思い出せる。
 スペルヴィアもきっと同じ時代に思いを馳せているのだろう。それだけ二人は同じものを見て、戦ってきたのだ。おそらくこうして向き合うよりも肩を並べて同じ先を見つめている方がはるかに二人らしい。
 ベールを引き上げられる間、氷女もスペルヴィアもしばしの間無言だった。それぞれの胸に去来する想いは簡単には言葉にならず、ただ、この先の未来において舞っているであろう楽しい日々への期待感となって鼓動が高鳴る。
「覚えているか、氷女。この間のデートで告げたことだ」
 ――『此の願いだけは、此の想いだけは……誰にも譲れんよ。此の絆は、絶対に断ち切れぬ……オレとお前の誓約だ』――
 笑みとともに誓いの口づけを贈り、さて、と空を見上げた。
「今後は忙しくなるぞ。傭兵家業は先日辞めたし、此の結婚式で素寒貧だ。さし当たって……お前を護り、支えるマネージャーとか要らんか?」
「間に合っています……と言いたいところですけれど、そうですね。考えておきましょうか。私も、これから忙しくなりそうですから」
 寄り添い歩く桜並木は春そのもので、新しい世界の幕開けを祝福する穏やかさだった。
「未来永劫、一緒に歩いていきましょうね」
「……あぁ、譲らんよ。此の居場所だけは、な 」
 交わす言葉はあまりに自然で、誓いというよりはむしろ、挨拶のようにも見えたという。
 一生消えない思い出とともに、二人は歩き出したのだ。
 ――未来へと。

●岐路〜世界・檻〜
 紫から遅れること1年、銀誓館学園卒業の日を迎えた葛馬とプルミナはそれぞれの道に進むため舵をとった。葛馬は文系の国立大、プルミナは領主候補として故郷のルーマニアに帰還する。
「銀誓館学園もこれで終了ですか。思ったより早かったですね……」
 と、葛馬の口をついて出た感想はそんなものだった。
 淡白といえば淡白だが、彼らしいと言えなくもない。太宰と三島という相反する属性の本を同時に愛せるその気質としては、その程度の矛盾など矛盾ですらないのかもしれなかった。
 卒業後は普通の学生になりたいという彼の願いは果たして叶うのかどうか。
 問題はひとつに、奨学金の返済である。まだ学生の身なれば、能力者として仕事を請け負うのが安定した道と思われた。
「余り無理をしないで済む範囲で、国内に活動を限定したいところですが……」
「海外のことは海外のものにお任せください。共に世界の平和のために尽くしましょう」
 その点についてはプルミナが笑顔で引き受ける。
「ナディアもおりますし、私は絶対に成し遂げてみせますわ」
 中学校で入学した時にはまだ、右も左もわからなかった少女はこの数年間で見違えるほどに成長した。プルミナの心を占めるのはただひたすら、感謝である。
 胸に卒業証書を抱き、春の空を見上げた。
 薄紅の花は希望の色。
「よく晴れた空ですわね――」
 
●同路〜狼・狐〜
 終わってしまえば呆気ないものだ、とエルバートは卒業証書の入った筒で肩を叩きながら中庭を歩いていた。周りでは同じく銀誓館を卒業した生徒たちがグループ毎に写真を撮ったり連絡先を交換したりと忙しない。それらの合間を縫うように移動するエルバートは一人だった。
 だが、胸を満たす寂寥感は孤独からくるものではなく、妙な開放感と去就の入り混じった不思議な気持ちに由来する。
(「卒業ってこんな気分になるもんなのか」)
 と、どこか褪めた感想を抱きながらぐーっと伸び上がった時――。
「お疲れー」
 背中から明るい声がしたと思ったら、力強い腕に肩を抱き寄せられた。
 エルバートがそんな行為を許すのはこの世にただひとり、相棒のナッシュだけである。
「おーう、お疲れさーん」
「どしたんだ、遠い目してさ」
「あー、ま、なんかこう、終わりだなって思って。お前は嬉しそうだなナッシュ」
 鼻先をぴんっと弾いてやると、ナッシュはくすぐったげに目をすがめて身を引きつつ答えた。
「だってさあ。いざ離れるってなると俺、やっぱ銀誓館に来てよかったなって思ったんだ。なんでかって考えたらさ、ほら、エルに会えたから」
「――――」
 なんのてらいもなくそんな事を言うから、言われた方が照れてしまう。
 エルバートは舌打ちしてナッシュの頭を抱え込むと問答無用のヘッドロックをかけた。軽く締めただけのつもりだったが、「うおりゃ」と気合を入れすぎたのか「ギブギブ!」とナッシュが本気で降参の声をあげる。
「ばか、しぬ」
「お前がばかな事言うからだ。そーゆー恥ずかしーこと表で言うなっつの。平気なフリして顔赤くなってんぜ?」
 指摘すると、ナッシュは慌てて手の甲で頬をこすった。
 だがそんな事で朱が消えてくれるはずもなく、顔を背けてぶっきらぼうに告げる。
「ちがう、だからほら、エルだけじゃなくて他の大事な仲間もな!」
 恥ずかしがっているのはお前だけではないのだと、肘でエルバートの脇腹を小突いてやった。まったく最後まで悪友めいた関係は変わらない。
「ほーら、照れてる」
「結局、なんて言ってもエルは俺をからかうんだな……っ!」
 仕返しとばかりに卒業証書の入った筒を振り上げるが、エルバートは身軽にひょいと避けて駆け出してしまう。期せずして校門までの追いかけっこが始まった。
「エルこら待て!」
「悔しかった追いついてみなー」
 そうして、記念すべき日もまたいつものじゃれあいで終わってしまう。それもそのはず、学園を卒業したからといって何か変わるわけでもない。
 そこにエルバートがいて、ナッシュがいる。
 離れろと言われたって離れられないのがこの二人だ。ようやくエルバートを捕まえたナッシュは息を切らせながら叫んだ。
「これからも、ずっとよろしくな!」
 勿論だ、とエルバートが言い返す。
「よろしく頼むぜ、相棒!」

 2015年――

●隠れ家〜サンシャイン〜
 それは街の片隅に存在する隠れ家。周りをビルに囲まれた店は表通りから少し離れた場所にあって、初めて訪れる者は携帯で地図を確かめながらでも難しい。
 けれど、喧騒から少し離れた場所にあるこの店を唯は誰よりも気に入っていたし、また大切にもしていた。
 唯がようやく自分の店を持てたのは最近のことである。鼻歌を歌いながらグラスを磨き、床を掃除して開店の準備を進める。客の入りは……まだまだかもしれないが、そこは気長にやっていくつもりだ。
「っと、外の看板変えねえと」
 慌てて店前に置いてある置き看板を夜のものと取り替えに走る。
 黒板に書かれた昼のメニューはカフェらしく軽食やスイーツが中心だが、日が暮れるとバーに早代わりしてアルコール類を提供する場となるのだ。
 看板の下で一休みしていた野良猫が「みゃあ」と鳴きながら逃げていった。唯はそれを視界の端で見送ると、いつもぴったりと側に寄り添っている真スカルロードの名を呼んだ。
「そろそろ時間だな。ジャック、可愛いお客さんを案内してやってくれよ?」
 頷き、ジャックが店を出たのがもう大分前になる。
 まだかまだかと唯がそわそわし始めた時、ドアのベルが鳴った。
「わあ! お兄ちゃんのお店、とっても素敵だね♪」
 可愛らしく着飾った結衣がジャックに連れられて店に入ってくる。長い髪を両脇で結わえ、白いコートを着ていた。ふんわりとした印象の結衣によく似合う、ボアのショートコートである。「案内ありがとう」と結衣に微笑まれたジャックは「どういたしまして」といった仕草で一礼すると店の奥に消えてしまった。
「外寒かったか?」
「うん。何かあったかいものが欲しいな」
 簡単な飯も作れると豪語しただけあって唯はすぐに温かなスープと焼きたてのパンをこしらえた。
 腹が減っては何も出来ぬ。
 結衣は残さず平らげてから、思い出したように持参した紙袋を差し出した。
「おめでとう、開店お兄ちゃん♪」
「おっ、ケーキか。良いな」
 しかも手作りとあっては唯も相好を崩すしかない。
 この自慢の妹、料理も得意で何かあるごとに手作りの菓子を差し入れてくれるのだ。それだけで唯は報われた気がして、嬉しげに目を細めながらそれを受け取った。
「お返しにカクテル作ってやるぜ。ほら、何年か前に約束しただろ?」
「覚えててくれたんだ!」
「おう。結衣のためだけに考えたカクテルだ」
 義妹の前で失敗はできないぞ、とシェイカーを握る手が少し緊張する。
「そういえば、お兄ちゃんがカクテル作ってるの初めて見るね」
 普段から格好いい兄だが、こうしてバーテンダーのシャツとエプロンに身を包みシェイカーを操っているとまた違った魅力があった。
 結衣が両手で頬杖をついてにこにこと待っている間に、唯は手際よくカクテルを完成させる。
「わあ……!」
 大きめのグラスの縁に切った果物を添えて、ピンに差したチェリーがミルキーな色に映えた。牛乳が好きな結衣のためにミルクをベースにしたオリジナルカクテルだ。オレンジがかった薄紅はアプリコットリキュールに由来する。それとココナッツリキュールも少々。
「美味しくて幸せー!」
「へへ、これから贔屓に頼むぜ♪」
 結衣が届けてくれたケーキを切り分けてしばしの休憩タイムを楽しんだ。
 カレンダーは2015年1月。
 まだまだ唯と結衣の人生は序幕が上がったに過ぎなかった。

●父と娘、椿の庭
「どうしてお分かりにならないのですか!」
 ところは東ヨーロッパに位置する共和制国家ルーマニア。実家の屋敷でプルミナは今日も今日とて声を張り上げた。白いドレスに身を包み御嬢然とした彼女はしかし、強い口調で主張する。
「いいですか、お父様。世界はもう変わり始めているのですわ。もう今までとは違うのです」
 しかし、さすがこの娘の父というか頑固な父親は決して首をうんと振らない。
『まったく、娘が妙な宗教にはまってしまった』
 とでも言いたげな顔で腕を組み、肩を竦めるにあたってプルミナは「ああもう」と地団駄を踏むのだった。
「どうしてお父様はあれほどまでに石頭なのかしら」
 いらいらと部屋の中を歩き回っては、よし、と気合を入れ直して父の書斎に飛び込む日々はそれはそれで充実しているように見えなくもない。
 あの父にしてこの娘、である。
 間違いなくプルミナは彼の血を引いており、だからこそ二人は長い間平行線を辿っているのだった。
 プルミナが海の向こうで頑張っている頃、日本でも更紗が旗揚げした新結社が認可される流れに至った。未だ試験段階ではあるが、使役外ゴースト達とも共同生活できる場を目指して広く門戸を開いたのである。
「ホームステイの問題点に、共存に関する事件やゴーストさんの知恵袋……ああもう、課題は山積みねっ!」
 寝不足の頭をフル回転させて、更紗はひとつずつ案件をクリアしていこうと決める。
「すぐに成功できるだなんて最初から思ってないわ。とりあえずは勢いで雑誌社て……と」
 行動力には定評のある更紗はてきぱきと初動に必要な準備を整えてしまった。
 もちろん、起点となるのはここ銀誓館である。
 更紗は結社を訪れた仲間に試し刷りした新聞のような小冊子のようなものを見せた。興味ありげに読み始めるみんなに簡単な説明をする。
「最初は学内瓦版でもいいと思うのよね。それから少しずつ一般にも広まるように、流通に乗せていけたらなあって考えてるわ」
 そのために協力をして欲しい。
 真剣な眼差しだが、口元には楽しくて仕方ないと言いたげな笑みが浮かんでいた。と、結社のドアがノックされる。訪れたのはチラシを見たという初々しい学生たちだった。
 更紗は笑顔で出迎える。
 メンバーは変わっても、この場所だけはずっと変わらない。
「ようこそ霧椿庭へ♪」

●就職〜渉〜
 旅から戻り、やはり銀誓館や日本に故郷の意識を感じた渉は今度こそ就職活動を始めた。もちろん能力者としての仕事も続けている。相変わらず渦子さんは隣にいて、頼もしい相棒だ。
 昔アルバイトしていた運送会社に就職が決まった時、渉はあまりにも嬉しすぎて、ハイな気分のままコジロウや友人知人にメールや電話をしまくった。それはもう、普段はどちらかというと筆不精な分、反動で大変なことになった。
「はっ……テンション高すぎた……!!」
 送ってしまってから気づくも後の祭り。
 だが、コジロウからはもっとハイテンションな返事が届いたし(『では祝いだ……!! 赤飯とケーキどちらが好みだろうか!?』という出だしのメールは軽く千文字以上あった)、友人たちも総じて温かい返事を寄越してくれた。
 もう一人、むつきにも連絡しかけたところで渉ははたと素に返る。
「ど、どうやって切り出そう……?」
 それまで普通にメールを送っていたのに彼女に対してだけは迷惑がられないかとか、余計な事を考えて萎縮してしまう。
(「声が聞きたいし連絡するけど、なんだろこの感覚」)
 それは特別に意識しているという兆しだったのかもしれないが、自分の感情に疎い渉が気づくよしもなかった。ただ渦子さんは彼の隣に座って、物言いたげな顔で首を傾げている。
 

●海へ〜二人の少女〜
 旅行に行く、というのはただ出かければいいというわけではない。物事というのは必ず始まる前に準備段階というものがあって、意外とそれが本番よりも楽しくなってしまったりする。
「わたしシンプルなのがいいなー」
「ちょ、人には過激なのを進めといて自分は無難なの選びますか?」
 ずるいです、と七海は頬をふくらませた。
 ところはカジュアルな店が軒を連ねるショッピングモールの二階。夏にもなるとどこも必ず水着のフェアや特設会場を用意して海やプールへの期待をかきたてるのがお約束となっていた。
 七海は前々からこはると約束していた通り、二人揃って水着を新調しに来ている。色とりどりデザインも様々な水着はただ見ているだけでも飽きない。
 普通に無地の水着を眺めていたこはるは、少しだけ拗ねたように言った。
「えーだって、こはるはまだいろいろとたりないもの」
「そんなことないです。こはるこそもっと大胆にですね……あっ、この辺りはどうですか?」
 そう言って七海が勧めてきたのは熱帯を思わせる色柄のツーピース、いわゆるビキニだ。こはるは少し頬を染めて「だいたん」と呟いた。
「あ、でもそのパレオ可愛い」
「でしょう? ほら、ちょっとパレオだけでも巻いてみませんか」
 七海はこはるに見せつけるように、パレオを広げてみせる。
 臙脂に近い深紅のパレオには先染めの花が大輪に咲き誇り、フリンジは黄色、翡翠、ターコイズと複数の糸が長く垂れている。しばしそのコントラストに見とれていると、いつの間にやら七海がいない。
「どこ、いってたの?」
「いえいえ何でもないですよ」
 その時にっこり笑った七海がなにを企んでいたのかを、こはるは現地でいやというほど思い知ることになる――……。
「きゃー」
「ふふふ、待てー!」
 これぞ青春、とばかりにやってきました夏の海。
 アルバイトをして貯めたお金で、思い切り遊びに訪れた場所は白い砂浜が遠浅に広がる海水浴場にもってこいの場所だ。。
 七海はあの日こっそりと仕入れておいた水鉄砲でこはるを追い回す。だが、こはるも負けじと手ですくった海水を七海の顔めがけて放った。
「わぷっ」
「あはは、やった」
「許しませんよー!」
 太陽が眩しすぎて、むき出しの腕でひさしを作る。
 白い砂、青い海。
 散々海で遊んだ後は、二人して民宿のご飯をご馳走になった。
「そして、おいしいお酒」
 調子に乗る七海を、こはるは「めっ」と窘めた。
「は、まだだめよ」
「む、気づいてしまわれましたか無念です」
 夕御飯は地元産の刺身や山菜を頂いて、ご満悦。味だけではなく見た目もこだわっていて、お刺身などまるで花が咲くように盛り付けられていた。思わず「わあ」と感嘆の声がもれてしまう。
「これぞ、海の幸。今、贅沢してる感じしない?」
 こはるは大切そうにお魚を味わってから、隣の七海に尋ねた。
「ん、おいしい。ほんと、来てよかったですねえ」
「わたしも。七海と一緒で楽しい」
「じゃ、次は山に行きますか」
「さんせー」
 約束、と小指を絡ませて指きりげんまん。
 目を閉じればいつでも思い出せる水面のきらめき、肌を焼いた太陽――二人一緒ならこれから何度だってこんな楽しみが味わえるのだと、心を躍らせた夏の思い出だった。
 
●幸福な日々〜双子〜
 世界で一番幸せだと胸を張って言える者がどれだけいるだろうか。
 少なくとも、楼心はそのうちのひとりであった。ただひとりと決めた花嫁をもらって、日増しに大きくなるお腹にそっと手を当てる……トクン、と鼓動が伝わった気がした。
「う、動いたかしら?」
「ふふ、ふたりとも元気いっぱいなんだもの。お父さんだってわかるのかな?」
 お腹をさすりながら話しかける沙羅の口調はもう母親のもので、楼心はそんなささいな事を嬉しいと思う。共同作業、なんて言ってしまうのは簡単だけれど、実際にはいろいろと障害も多いものだ。
(「けど、ときどき不思議に思うの」)
 大好きな人の子供を産める幸せ。
 幸せ過ぎて信じられない、という気持ちがあるのかもしれない。ちら、と楼心の横顔を伺うが、彼は真剣な顔つきで「もう一回動かないかしら」と呟きながら手のひらを動かしている。何だかおかしくて嬉しくて、やっぱり沙羅は笑ってしまった。
「先生が言うには、男の子と女の子の双子なんだって」
「やだ、どうしましょ。二人分名前考えなきゃならないだなんて、嬉しい悲鳴だわ」
 二人で相談した結果、楼心が女の子の名前を、沙羅が男の子の名前を決める担当となった。決定するまでには紆余曲折あったのだが、その九割がのろけだったのでこの場では割愛する。
「どうしようかな……」
 唇に指をあてて、沙羅は何日も悩んだ。
 やはり、自分の好きなものを与えたい。花、桜、植物の名前――……。
 さんざん悩んだ末に、沙羅は楼心を見上げてこう切り出した。
「『樹羅』、っていうのはどうかな?」
 袖を引かれた楼心は幾度かその名前を口にしてから、優しい顔で微笑んだ。
「素敵ね。キラ、格好よくて綺麗な名前だと思うわ。沙羅ちゃんから一字とったのね」
 楼心に同意してもらえると、何だか安心する。
 沙羅はほっと胸をなで下ろして、今度は逆に尋ねた。
「楼心さんは決まりました?」
「悩んでたんだけど、沙羅ちゃんの命名を聞いてやっぱりこれしかないって思ったわ。私から一文字、沙羅ちゃんが団長だった結社の花桃館から一字ずつとって……『楼花』」
 どうかしら、と今度は沙羅が感想を求められる番だった。もちろん、答えはイエス。父と母からそれぞれの字をもらった子供たちはいったいどんな風に育っていくのだろうか。
「なんて、まだ産まれてもいないのに気が早すぎるかな。でもね、楼心さんと一緒なら何があっても乗り越えられると思うんだ」
 沙羅の花がほころぶような微笑みに応えて、楼心は彼女の手をしっかりと握り締めた。
「まかせてちょうだい――なんて言いつつ、私もちゃんとお父さんできるか不安がないと言ったら嘘になるわね。二人で大切に育てていきましょう、この子たちを」
「はい!」
 名前はこの世に生まれて初めてもらう贈り物。
 花のように可憐で可愛い子に育ちますように、すくすくと伸びる大樹のように真っ直ぐな心を育ててくれるように。親の願いと愛を一心に受けながら、赤ちゃんは少しずつ、けれど確かに大きくなってゆく。
 そして迎えた、出産の日。
 元気な双子の赤ちゃんが揃って産声をあげた。

●蒼間夜刀〜狭間〜
 問い――人殺しにも人並みの幸せを請う資格があるのか。
 答え――それを許す者がいれば、あるいは。
「健やかなる時も病める時も、ともに居る事を誓います」
 土壇場になって、やはり、全うな幸せというやつから逃げ出したい気分になるのかもしれない。夜刀の杞憂はあっさりと自分の本心に裏切られた。
 それくらい、その言葉は夜刀の唇から呆気なくこぼれでた。
 二人を見守る人々の眼差し。
 仲介する神父の問いかけ。
 そう、これは儀式だ。夜刀というどうしようもない人間がみゆという女に救われる物語の結末に記される出来事。まるで童話のように「めでたし、めでたし」と謳われるのは自分とは全く縁のない世界だと思っていた――……。
(「出会った時は、こんな未来、想像してなかったな」)
 夜刀の隣で純白のウェディングドレスに身を包んだみゆは、静粛な気持ちとどこかふわふわと飛んでいってしまいそうな気持ちを半分ずつ持ちながら佇んでいる。
 気づけば、出会ったばかりの夜刀を思い出していた。
 あれは五年前。今、隣にいる彼はその時と変わったところもあれば変わらないところもある。たとえば、頼りがいがある、格好良いという印象は今でもまるで変わらなかった。
 夜刀とみゆ。
 まるで違う二人が惹かれ合ったのは必然だったのだと、今にしてそう思う。
 男は人殺しである。
 無感動に依頼を受けて、ある時は無力な一般人を、ある時は狂気に取り憑かれた貴種吸血鬼や能力者らの命を無慈悲に刈り取ってきた。
 振り返れば何人殺してきただろう?
(「殺し過ぎてこの手は真っ赤だ」)
 なのに、どうして、彼女はこんな俺を愛してくれたのか。それでもいいと、全てを許すような聖女の微笑みで告げることができたのだろうか。
 女は心を罪悪感に苛まれていた。臆病で役に立たない、何も持たない人間だと思っていた。
「……貴方を好きだという気持ち以外、何も持っていないわたしを選んでくれた……」
 貴方となら、未来を信じられる。
 差し出された手をとってみゆは、紅を佩いた唇で紡ぎ出す。
「健やかなる時も病める時も、ともに居る事を誓います」
 夜刀の瞳はみゆを、みゆの瞳は夜刀だけを見つめている。ほんの一瞬が長く、長くいつまでも続くような錯覚に見舞われながらそっと唇を重ねた。
 ああ、と夜刀は悟る。
 自分の命が続く限り必ず、この存在とこれからの未来を守りぬくのだと、それが己の心の底からの願いと祈りであると知った。
「みゆ」
「……はい」
 短い呼びかけと返事に全てを込めて、ここに誓う――。

●告白〜凪いだ水面を〜
 誰にでも、幾つかは自分を縛るルールのようなものがあるのだと思う。家とか親とか自分ではどうにもできない事はいくら悩んでも自然に解決するわけが――ない。
(「また、ため息」)
 公園の花が綺麗だよ、と誘い出したのは幸也の方だった。
 ちょうどクレープの屋台が出ていて、幸也がひなたの分まで奢った。ベンチに並んで座ってクレープを頬張る。いつもなら美味しそうに食べ始めるひなたが、今日はまったく食が進まない様子だった。
「どうしたの?」
 尋ねると、ひなたは俯き気味に言葉を紡いだ。
「うん……その、進路のことでちょっと」
「卒業したら、確か服飾系の学校に進みたいって言ってたよね?」
「そう。だけど、実家との約束が……」
 陰陽道の家系、それも正統後継者として産まれ落ちたひなたには約束された未来がある。それは、卒業と同時に見合い結婚をすること。学園に入学した時に約束した事だ。
 ただし、恋人がいる場合はその限りではないという条件がつけられている。
「……けど、恋人、いないでしょ」
 ひなたはため息をついた。
 女の子なら誰だって、好きでない人との結婚なんて嫌だ。
 事の次第を把握した幸也は途方もない怒りに駆られる。
(「まただ。ひなたの家はいつも、ひなたを縛る」)
 ほんの少し前までなら幸也には何もできなかったかもしれない。ただ苛立ちにまみれ、反抗としてしか本意を表せなかっただろう。
 だが、今は違う。
 苛立っても解決なんてしない――ならば。
「好きだよ、ひなた」
「え?」
 思いがけない言葉にひなたは驚いて顔をあげた。
 幸也は彼女を安心させるように、にっこりと微笑んで言葉を続ける。
「恋人がいない、なら俺がなるよ」
 ふりでもいい、とは言わなかった。
 それではきっとこの純真な少女は心を痛めてしまうだろう。ひなたは素直すぎるから、嘘と思うと気が引けるに違いない。
「……けど、いいの?」
 嬉しさもあったが、それ以上に不安が大きかったのはひなたの純真さによる弊害だ。
 もし、幸也への好意が恋愛感情として自覚されきっていたのなら、素直に喜べたのかもしれない。しかし、ひなたは良い意味でまだ子供だった。目の前の少年はただ『大好きで仕方ない』相手であり、それ以上でも以下でもない。
 それを理解しているから、幸也はくしゃりと頭を撫でて言い切った。
「ひなたがいつか、恋人になって欲しい人ができたらやめればいい。今は俺に任せて。大丈夫、上手くやる」
 手を握ると、ひなたはしっかりと頷いてそれを握り返した。
 幸也は微笑んでベンチを立つと、さっそく実家に向かった。挨拶は早い方がいい。安心してついてくるひなたを愛しく思いながら、いつか来るかもしれない別れの影を今は見ないふりをした。

●彼岸〜13年目〜
 某日、李緒は花を持ってとある墓地を訪れていた。
 忙しい合間を縫っての来訪で、あまり長い間いるわけにはいかない。李緒は大学院で猛勉強の真っ只中なのだ。いつだったろう。ふと、気づいた時には失っていたはずの記憶を完全に取り戻していた。
 パズルのピースがひとつずつはまっていくように、少しずつ李緒の中を満たしていったかつての記憶。
 前々から部分的に思い出していたそれが……ようやく、完成されたひとつの絵となって心に蘇った。
「私、全てを思い出しました。長い間、ありがとうございました……」
 記憶を取り戻した李緒がまず行ったのは、親戚への報告である。武家の出身である彼女のルーツ。心理学を専攻したのは自分の心を知りたかったからなのだろうか、と彼女を知る者は思ったかもしれない。
 風がゆるやかに吹く墓地は、他に人気もない。
 対峙する墓に眠るひと――お父さん。
「よかった。お墓があって」
 考えてみれば、あれだけ立派な家なのだから墓がないわけはない。だが、その中にちゃんとあの人がいるのかが不安で仕方なかった。
(「でも、いらっしゃるんですね、そこに……」)
 丁寧に掃除をして、花を生けて水をかける。火をともした線香の前で手を合わせると自然にまぶたが落ちた。
「記憶喪失から13年、遅くなりましたが……私は生きています。友達や学校に恵まれて、充実した日々を送っていますよ……」
 ああ、自分はずっとこの報告がしたかったのだと。
 満足した李緒は淡く微笑んで、ゆっくりと立ち上がる。未練は綺麗さっぱりとぬぐい去られて、いま、李緒は本当の意味で生まれ変わった気がしていた。
 
●結婚式〜日隣〜
 どうも、現実感がない。
 先ほどから舞夜が感じている違和感を総括すると、どうやらそういう事になるらしい。
 場所は教会。日柄もよく、集まった人々は誰もが舞夜たちを祝福してくれている。今日の主役は舞夜と、隣に佇む穹のふたりである。
 いわゆる結婚式というやつだ。
(「あたしが純白のウェディングドレスを着込んでるなんて、冗談みたい」)
 目の前で何やら小難しい英語を口ずさむ神父の声など右から左に聞き流しながら、舞夜はちらちらと穹の横顔をうかがった。
 相変わらず、端正。白皙。清廉。
 さらさらと褒め言葉が出てくる自分の感性を褒めそやしつつ、舞夜は自分の手が震えるのを覚えた。
「(どうしたの)」
 唇だけを動かして、穹が尋ねる。
 穹も穹で、今日この時にしか身につけない、一生に一度の礼服を纏うにあたって身が引き締まる思いを感じていた。
 もちろん、普段から白を好む穹が着慣れた色ではある。
 けれど今日に限っては禊の後に似た覚悟のような、厳粛な心が自然と生まれていた。思えばずっと、土蜘蛛のために生きてきた巫女の身である。
 それが何故、たったひとりの女性のために生きる路を与えられたのか――。
「……誓いますか?」
 深い思考は不意に、神父の問いかけによって途切れた。
「誓います」
 先に穹が、次に舞夜が答える。けれど神父には決して聞こえないささやき声が耳に届いた。
「……そんなの、もうとっくに誓っているよ。ねぇ、そーくん?」
 悪戯めいた告白に穹は瞬きをして、それから吹き出すように笑ってしまった。今日からは彼女の為に生きるんだ、なんてどこか堅苦しく考えていた自分を恥じる。
「そうだね。言われてみれば、ずっと。僕は君の為に居たんだ」
 誓いはささやかな願い。
 ただ、君の傍で息をしていたいという純粋な祈りだ。
 穹は舞夜の震える手を取って、過ぎ行く時間を惜しむようにゆっくりと指輪を通した。震えは止まる。だから舞夜はすんなりと穹の指に指輪を嵌めることができた。
 ――眩しい。
 降り注ぐ日差しも、降りかかるライスシャワーも。
 そして、隣にいる君の笑顔さえ輝いている。
 時が過ぎようともこの胸に深く鮮烈に刻まれた、忘れられない一日が過ぎてゆく。

●After days〜天藍〜
「いい子にしてたか、藍」
 仕事から帰った和彦はまず、出迎えに駆け寄ってきた息子の藍を抱き上げてあやした。大学卒業後に結婚。念願だった教職は悩みもあれど、だからこそやり甲斐のある仕事だという実感がある。
「いてっ、こら!」
 日に日に生意気に育つ息子は誰に似たのか乱暴者で、一緒に風呂に入っていた和彦は湯船の中で暴れる藍に今日も手を焼く毎日だ。
 過ぎ行く日々は平凡だけれど幸福。
 たまの休みには家事を手伝って、洗いたてのシーツをベランダに干していく。手伝うと言って小さな手を伸ばす藍から受け取った白布を、皺を伸ばすようにパンッと引っ張った。
「ああ、今日も空が眩しいや」
 目のくらむような蒼穹。
 遠い空を仰ぐ度に、その静謐な色が染み渡る。――未来そのもの。此処から続く何かを託すのであれば、その空色をこそ名付けたかった。
 瞳に映り込む鮮やかな藍が眩しすぎて、和彦は僅かに左目をすがめた。

●図書館〜in Dream〜
 その日届いた一通の封筒を手にしたまま、茲はしばらくの間その場に佇んでいた。
 差出人は某図書館。
 茲は先日、司書の募集に際して幾度かの面接や書類審査、筆記試験を受けた。封筒の大きさと厚みからして内定通知に間違いない。
(「……と油断させておいてご縁がありませんでしたとか、やめてよね」)
 念のため、と開けた封筒の中から合格の旨を告げる用紙とその他必要書類を見つけてようやく、茲はほっと旨をなで下ろした。
 本に係わる仕事という漠然としたものが司書という明確な形になったのはいつの頃からだったろう。
 他にも、そのような仕事は幾つもある。
 書店、出版社、印刷、翻訳。
 その中で茲が図書館という本の貯蔵庫を選んだのはやはり、『本』という確かな質量を持った物品そのものが好きだった、という事なのかもしれない。
 作るより売るより、読んで欲しい。
 ――なんて、本当に考えていたのかどうかは当時の自分にしかわからないけれど。
「20過ぎたからなのかな……なんだか感慨深い……ん……?」
 気の利いた図書館らしく、採用に必要な書類の他に図書館の館内案内や入荷予定書籍の一覧表なども送ってくれたようだ。本の虫の性というやつでそれに目を通していた茲は、一冊の書名に気づいて息を止めた。
「『初心者にもわかる占星術』――」
 途端、ある友人の顔が脳裏をよぎった。
 彼はまだあの約束を覚えているだろうか。
 ――俺も占星術で占ってもらえないかな? 今じゃなくて今度でも、何時かでもいいんだ――
 ……あれからもう、何度春が訪れたんだろうか。
 
●日常〜狼と狐〜
「どーして俺らはいつもこういう目に合っちまうのかねぇ……」
「エル、ぶつくさ言ってないで援護しろよ!」
 ところはどこかの街の路地裏。
 エルバートとナッシュにとって、ゴースト退治は大学の講義の合間とか夜だとかに行う年中行事に過ぎない。二人でならそこらの雑魚にも遅れをとらぬ――と、豪語している側から増援に合ってしまい、ひいこら背中合わせに戦っている最中なのだった。
「グルルルル……」
 鉢合わせしたのは、数頭で群れを為した犬型の妖獣。
 聞く耳など持ち合わせいなさげな上、もう少しで一般人を巻き込むところだったとなれば手加減無用だ。尾獣穿の援護が迸るなか、前に詰めたナッシュのクレセントファングが氷爪の一撃を叩き込む。妖獣の悲鳴と雄叫びの中、ゴーストの血がアスファルトを赤々と染め上げた。前に出過ぎるなとエルバートが止める暇もない。
「一丁上がり!」
 止めとばかりにクレセントファングでいつも通りに敵を蹴り倒したところ、後ろから伸びてきた腕に頭を締め上げられた。エルバートお得意のヘッドロックである。
「だーかーらー、無謀に特攻すんじゃねーっつの!」
 昔、銀誓館で依頼を受けていた時と今では状況が違う。増援などの情報が得られにくく、判断がつかなくて危険なのだ。
(「いい加減ちゃんと説教しねーと判らんかなコイツは」)
 呆れたように肩を竦め、エルバートは腕を組んだ。威嚇――もとい説教する時のポーズである。
「とりあえず、帰ったらお仕置きだかんな!」
「……え? お仕置き?」
 と、自分でも赤くなったのが分かってはっと頬を抑えた。
 エルバートも呆れ顔だ。
 恥ずかしいのと悔しいのとで、ナッシュは言い訳と知りながら言い募る。
「とりあえずさ、怪我しなかったんだからいいじゃんか」
「あのな、怪我しなくても心配はするってんだよ。まったく」
「……あ、そっか」
 なるほど、と納得しているらしい相棒は無邪気というか無自覚というか、危なっかしくてたまらない。そういうところは高校生だった時のままだ。大学生になっても何ら変わらない。もちろん、それで安心する部分もあるといえばあるのだが――。
(「何だよ、自分ばっか分かってるって顔してさ。俺だってそばにいてくれるのをありがたいって思ってたりするのに……」)
 不服未満の感情を腹の底にしまって、降参、とナッシュは軽く両手を挙げた。
「お説教はここまで! 晩めしの買い物して帰ろうぜ?」
「ふーん? そんじゃ何作って貰おー、か、ね……」
 エルバートが言葉を失ったのは自分の前に差し出されたナッシュの手を見て、だった。厳密に言えば、悪戯が成功したみたいな顔で笑っているのに気づいたからだとも言う。
「ばーか」
 エルバートはナッシュの頭を軽く小突いて先を行った。
「あ、待てよエル」
「お前の魂胆なんか見え見えなんだよ」
 慌てて追いかけてくる気配に、エルバートは照れ隠しのラリアットをくらわせる。何だかんだ言って仲のよい二人は、先を争うように肩を並べて夜の街を後にした。

●マイ・メリー・スプリング〜卒業〜
 月日は流れ、春――今年もまた卒業の季節がやってくる。無事に卒業証書を手にした業は、武流やユエ、小春達が集まっているのを見つけて大きく手を振ってみせた。
「お互い卒業おめでとー!」
 同じ日に巣立つという共感は非常に強いものがある。
 武流もまた、「おめでとなっ!」と手を振り返した。業はそれで気が済んだように頷き、歩き出す――が、すぐに妙な顔つきで立ち止まった。「げっ」と顔に書いてある。父と母、それにひとつ上の兄貴が来ていたのだ。
 ぎこちないのは、互いに同じ。
 いくらかは和解したといってもそれで全てのわだかまりが消えるわけではない。だが、業は気まずさに頭をかきながらも自分から口を開いた。
「あー……来てもらっといて何だけど、この後どうすんの?鎌倉の観光案内くらいなら出来るけど……」
 彼は来月、工学部に進んで将来は技術者を目指す。趣味はバイクでツーリング、オフロードのレースにも出ることになるのだが、それはもう少し先の話だ。
 一方、ユエは後ろ手に卒業証書の入った筒を弄びながら、ずっと聞きたかったことを切り出した。
「武流、里に……帰っちゃうんだね」
 さぐるように武流の目を覗き込んで、更にに尋ねた。
「やりたい事がそこにあるの?」
 真摯な問いかけに武流は、青年らしくなった顔つきで頷く。
 初めて学園に来た時はまだ幼かった牙道忍者の少年は見違えるほどたくましくなった。無力だったあの頃とは比べ物にならないほど、強くなったと思う。
「ああ。俺、里の事ずっとほったらかしだったからさ。知ってるだろ、俺の里が熊妖獣に襲われてたって話。あれで結構犠牲者とかも出てて、村を立て直さなきゃならない時に俺、銀誓館のみんなと一緒に戦いたくてここに来たんだ。だから、今度は里のために生きる番だと思う」
 武流は強い眼差しで笑った。
 ユエはそっか、と相槌をうつ。
「私は大学進学だけど……ぜーったい銀誓館の先生になってみせるよ!」
 決意の源は自分の経験から来ている。周りが自分と違うものしか見えない人達ばかりに囲まれて、寂しい思いをした時期があった。そうした子らの助けになれたら――そんな事を考えられるようになったのはひとえに、この場所にこれたから、だった。
「銀誓館に来れて本当によかった」
「なっ! ここすっげぇ場所だよ」
 嬉しげに頷く武流に、ユエは自分も嬉しくなる。
「武流とも友達になれて、本当に嬉しかったよ」
 不意打ちの言葉に武流は顔を赤くして、ぶっきらぼうに言った。
「な、なんだよ改まって!」
「あー、照れてる。へへっ、私には家族っていた事ないけど、この銀誓館がお家で、皆が家族みたいな感じ、だな」
「わかるわかる。俺も親の顔知らなくて、里の皆が家族みたいなものだったけど……銀誓館にも同じもの感じたあ。もう一つの家族、か」
 どことなくしみじみしてしまうのは、やっぱりこれが最後だからなのかもしれない。
「卒業おめでとう! 銀誓館はいつでもここにあるから。もしも何かあったらすぐに助けを呼んでね!」
 宿題とかはもう流石に残ってないよね、と失礼な事を言いながら現れたのは小春だ。とはいえ、夏休みがピンチだったのは確かだから武流はぐうの音も出ない。
「あ、武流くん!」
 もう一人、武流を呼び止めたのは日和子だった。
 息せきかけて駆け寄った日和子も、しばらく会わない間に随分と大人びた。本人としては、成長できたのかどうかいまいち実感がなかったりするのだけれど……。
(「何かを掴めたような、やっぱり何も掴めなかったような……」)
 ただ足早に過ぎ去った気がする、というのが本音だ。
 寂しいようなそれでもなお、何かをやり遂げたような、不思議な感覚がする。
「日和子も地元帰るんだ?」
「うん、そう。武流くんはすぐ里に帰るの? 私は少しだけ見てから地元に帰るけれど」
「夜の新幹線取ってあるんだ。俺もさ、ひとりで乗れるようになったんだぜっ!」
 武流は得意げに笑ってみせた。
 うん、うん、と日和子は彼女らしく丁寧に話を聞いてくれる。
 そして最後に、またね、と言った。
「そっか。……あまり会えなくなるけど、お互いに元気で。札幌に来ることがあったら言ってね。見たいところ全部案内するから」
「札幌って飛行機乗ってくんだよな? 俺、一回あれ乗ってみたかったんだ! 行く行くっ。あっ、連絡先? ありがとっ!」
 日和子から札幌の住所や諸々の連絡先を書いた紙をもらった武流は、それを大事そうに卒業証書の入った筒の中にしまった。別れは旅立ち。だが、気持ちさえ忘れなかったらいつかまたきっと縁が皆を繋げてくれるだろう。
 少しだけ寂しそうに、けれど小さな期待も織り交ぜた表情で日和子が言った。
「もし私がそっちに行った時は案内よろしくね」
 だから、武流も力強く頷いた。
「ああっ、絶対に来てくれよなっ!」
 二人のやり取りを見ていたユエは、武流の袖をつんと引っ張って囁く。
「札幌もいいけどさ、武流も時々は学園に『帰って』きてよ……ね」
 なんだか、ユエらしくないおとなしげな表情で言われたものだから、武流は首を傾げて「もちろん」と請け負った。
「やっぱこの場所は特別だもんな」
「うん。どんどん変わってく世界に置いていかれて、誰かが寂しい思いする事がないように。守っていきたいんだ、この場所を」
 ユエは最後にゆっくりと、桜吹雪に包まれる学園を見渡した。
 それぞれの道を進んでも運命の糸は繋がっている。だから、きっとまた会える。――ユエは別れ際、悪戯っぽく笑って武流を振り仰いだ。
「……で、結局彼女はできたのかなー?」
「うぐっ……」
「ほら、菓乃子ちゃんとの仲とかさ」
「菓乃子? 菓乃子は……」
 ひそ、と武流はユエの耳元に囁いた。
 ――悪女だ。
 果たして、武流がその意味を正確に把握しているのかは謎である。

●赤い糸〜金銀〜
「うむ、この袴というもの存外動きにくい……」
 メイベルは裾を持ち上げるようにして、降り積もった桜の花びらを出来るだけ踏まないように歩いていく。幸い、天気は晴天。これ以上ない卒業式日和だ。
 隣には同じく袴姿のリーゼロッテが卒業証書の入った筒を片手に微笑んでいる。最後まで二人は一緒だった。難儀している互いの顔を見合わせて、くすっと吹き出す。
「ふふ、写真を撮るまでの我慢ですわ」
「まあ、記念だからな」
 日本人は昔、こんな窮屈なものを着込んでいたのかと感心する。まるで肩が凝ってしまいそうな装束だった。リーゼロッテは満更でもないのか、扇で口元を隠しつつ、メイベルを褒める。
「でもとてもよく似合っていましてよ。メイベル」
「そうか?」
 親友に褒められたら悪い気はしない。
 メイベルは唇の端をあげて、すぐ側にリーゼロッテを呼び寄せた。
「渡したいものがあるんだ」
 その場で、メイベルは自分の髪を結い上げていたリボンを解く。長い銀髪がさらりと背に垂れて桜の洗礼を受けた。
「今後は、我が英国、リゼがドイツとしばらくの別れになる。これを我と思って、預かってもらえるかな?」
 すると、リーゼロッテは大切そうに両手でリボンを受け取り、代わりにいつも身につけていた赤いチョーカーを差し出した。
「では、私からはこれを」
 分身のように身につけていたそれらを交換するということは、誰よりも信頼しているという証でもある。それと、再会の願だ。相手の傍にいられない自分の代わりを、来るべき日まで努めてもらうのである。
「約束しましょう、メイベル。わたくし、来るべき能力者たちの世界に於いてあなたと同じ道を歩むべく、邁進を怠りません」
「ふん、もとより心配などしていない。リゼならばやり遂げるだろう。だから我も手は抜けない」
 場所は違えど、目指す方向は同じだ。
 いつか二人の道が再び交差するとき、この世界はどんな表情を見せているのだろうか。名残惜しむ気持ちは一瞬で、その後にはもう決然とした別れがあるのみだった。
「では、リゼ。また会おう」
「ええ。必ずですわ」
 差し出した手はしっかりと握り返された。この瞬間、繋がった心は幾千幾万という距離を超えて共に在る。メイベルとリーゼロッテは最後に微笑み合い、そして互いに背を向けた。

●赤い糸〜宵闇飛翔〜
「はぁ……」
 思わずレンの口からこぼれたため息は、自分でも理由がよくわからない。ゴーストを退治した帰り道、レンは夜空を見上げて白い息を吐き出した。北の地は凍えるような寒さだ。ふと、日本は今頃春だな――と、懐かしい記憶に思いを馳せる。
 卒業を待たずして、世界に飛び出してからはや4年。
 観光に交流にゴースト退治と、日々は充実している。生来の気ままさで、明日の宿も知れずに飛び回るのはレンの生き方としてはきっと、相応しい。
(「けれど、何か一つ足りない気がするのはどうしてだろう?」)
 一度疑問に思ってしまったらいてもたってもいられずに、レンは気づけば再び日本の地を踏んでいた。桜の咲き乱れる、卒業の季節。そこに――銀誓館の卒業生の中に、彼女の姿があった。
「十六夜!」
 満ちる、とでも言えばいいのか。
 長い髪、端正な横顔。彼女を視界にとらえた瞬間、抱いていた違和感が綺麗さっぱり消え失せた。名を呼ばれた十六夜は風に翻る髪を手で押さえ、ゆっくりと振り返る。まるで映画のコマ送りのようにゆっくりとした動作だった。
 否、本当は一瞬だったのかもしれない。
 レンの瞳を通して見えた世界はそうだった、という話だ。
「レン……?」
「そう。覚えてくれてたんだ、よかった」
「忘れるわけないじゃない」
 心外だと、十六夜は諌めるような目でレンを見た。
 一足先に学園を去ってしまった心の拠り所は、根本的なところでわがままなのだ。人の気も知らず、糸の切れた凧のように風の向くままいなくなる。
 積もる話は尽きないけれど、レンはこみ上げる思いのままに自分の気持ちを吐き出した。もういてもたってもいられなかった。
「これから始まる新しい世界を、この目で見たい。出来ればその景色の中に、君がいたらいいな」
 どこからどう聞いても、それはプロポーズに似ている。
 十六夜は目を瞬かせただけで、動揺の気配すら見せず、さらりと答えた。
「私も、私の未来に貴方がいてくれたらと思っていたところよ」
「じゃあ、一緒に来てくれる?」
「ええ」
 短い返事は了承の言葉。
 レンは満面の笑みで十六夜を抱きしめる。それから数日後、二人は揃って日本を後にした。どこまでも続く空の中、飛行機で飛び立ってゆく――。
 遠くなってゆく島国を見下ろして、レンはこれまでのことよりこれからのことについて考えた。それは色々と可能性を検討したものの、いずれも色鮮やかな期待に彩られていた。

 2017年――

●夢心地〜再会〜
 胸の鼓動は近づくごとに早さを増してゆく。期待に頬を上気させて、結梨は道を急いだ。早く、早く。少しでも早く皆に会いたい――。
 大切な仲間達との同窓会が企画されたのは、もう何ヶ月も前のことだった。みんな忙しいからと、綿密にスケジュールを調整してようやくやってきた今日、この日。
「久しぶり、わあ、懐かしい……!」
「おひさしぶり。みんな、かわらないわね」
 集合場所に現れた深夜は自然と笑みがこぼれるのを感じた。しばらく待って、無事に全員が集まる。それから移動が始まった。そう、今日の目的は他にも幾つかある。そのうちのひとつが、未都の経営する店の開店祝いだった。
「未都さん、お店の開店おめでとうです」
 店のドアを開けた瞬間、懐かしい笑顔が出迎えてくれた。
 ひなたはにこにこと微笑んで、「ありがとう」と祝福を受け取る。
 ここ、同窓会の舞台となったのは未都が独立開業した隠れ家的古民家風雑貨カフェで、結社活動でのノウハウを活かして趣味と実益を兼ねたとにかくスペシャルなお店なのである。
 元々のひたむきさとアルバイト時代のツテもあって、開店したばかりだというのに内装はそれなりに豪華だと自負していた。
「ようこそいらっしゃいました! これね、羊や黒猫を象ったマジパンを飾った特製果物ケーキ。今日のためにレシピ考えたの」
 そう説明しながら、未都は起用な手つきでケーキを人数分に切り分ける。
「っと、うまい具合に分けられるかな」
 せっかくの動物たちが切れてしまってはかわいそうだ、とちょっとした苦心すらもなぜだか楽しい。ようやく皿に取り分けたところで、テーブルには空席がひとつある。
「あれ、イセリアさんは?」
「あ、ごめんなぁ。いろいろ面白そうなものがあったからつい」
 興味津々で店内をうろうろしていたイセリアは好奇心そのものといった顔のまま戻ってくる。手にはやはり、開店祝いのプリザーブドフラワー。オレンジとイエローの組み合わせは未都をイメージしたものだ。未都は「ありがとう」と受け取って、それをさっそくカウンターの上に飾った。
 それにしても、と音々はさっきからずっと気になっていたことを口にする。
「幸也さん、両手……所じゃないくらい花、持ってますね」
 音々に指摘された幸也はなるほど、と店にたどり着くまでに感じていた視線の意味を理解した。今日に限って顔に何かついているのかと心配したくらいだったが、どうやら原因は自分というよりも周りにあったらしい。
「……そういえば男1人だった」
 だからか、と合点する。
 周りの人間から見ればさぞかし羨ましく見えたはずだ。
「知人が皆美人というのも大変だな」
 うんうん、と結梨は心の底から感動したように両手を合わせ、成長した皆の可憐さを褒め称えた。
「深夜ちゃんも音々ちゃんも美人になったねー。未都ちゃんもひなたちゃんも、相変わらずかわいい!」
 結梨はつい癖で二人の頭を撫でてから、思い出したように羊の置物を取り出した。
 今日渡そうと思って随分前から用意していたものだ。少し照れながら、喜んでもらえるかなと緊張しつつ差し出す。
「これ、二人に。卒業おめでとう」
「わ、いっぱい嬉しい」
 ひなたが笑うとまるで、おひさまがにっこりしたかのように胸が温まる。卒業祝いの羊はきょとんとした顔でひなたを見上げていた。とぼけた表情がなんとも可愛らしい。
 大人っぽくなった、と褒められた音々は嬉しかったのか少し照れているようだ。
 たどたどしい口調は変わらないながら、その目元や口元は確かに以前よりも大人びていた。
「今……家の手伝い、だけれど……将来は……」
「ん、神秘的な美人さんの夢聞きたいな」
 深夜がにっこりと笑って先の話を催促する。
「未都さんの夢が叶ったこの場所で、新しい夢の話を聞くのはきっと素敵ね。小さな夢の国。その中にこの絵も混ぜてもらえるかしら」
 そう言って、未都は持ってきていた包みを解いた。そこには黄色の招き猫が書かれた小さな水彩画がある。深夜が手ずから選んだ、未都への贈り物だ。
「既に貫禄ある素敵なお店のお姉さんに、お客さんと福を呼び込んでくれますように。気に入ってもらえるといいんだけど」
「わ、ありがとう」
 雑貨カフェらしく、ごった煮だけどどこかほっこりするアイテム達が次々と飾られてゆく。一通りプレゼントを交換し終わった後は、たくさん話したいことがあり過ぎて混線してしまうのもご愛嬌。
「イセリアちゃんもモデルみたい……って、モデルだったよね」
 さっきから自分の事は棚にあげまくっている結梨に突っ込もう突っ込もうとと思っていたイセリアは、ようやく巡ってきたチャンスの尻尾をしっかと捕まえた。
「むしろ奇麗と言えば結梨さん抜きに語れねぇべ。あ、ひなたさんの進路はぬいぐるみ職人て聞いただ。裁縫好きなおらとしてはこう、どんな布が流行りなのかとか仕入先はとか色々聞かねばならんことがだなー!?」
「おおお落ち着いてイセリアさんー! えっと、やっぱりいいものは直輸入じゃないと手に入らないのでドイツとかイタリア製の生地を取り寄せてみたいかな、とか……あっ、未都さん羊さんありがとうございます」
 ぬいぐるみの話になると、ひなたは途端に職人の顔になる。普段は難しい話などからっきしなのに、外国のメーカーや横文字の単語などをすらすらとそらで言い始めるからあなどれない。
 カフェラテに羊の絵を描いてもらったひなたは飲むのがもったいないと歓声を上げた。 
「どういたしまして。頑張って修行したんだから、腕をふるわなきゃ! さあ、リクエストはなに? 見た目にも愉しいラテアートをご覧あれ」
「わあ可愛い。さすが未都さん、器用だわぁ」
 一口ケーキを食べた音々は、ぱっと顔を輝かせてもう一口、さらに一口と美味しさを味わった。
「はぅ……お菓子も美味しい。ひなたさんのぬいぐるみ、私、欲しいです。機会があれば是非」
「へへ、頑張って修行するから楽しみにしててね。とっておきのを作るよ」
 歓談に花が咲く中、深夜はにこにこと皆の話に耳を傾けている。綺麗になった女の子の笑顔とか、更に今後が楽しみなモデルの華ある仕草だとか、見ていて飽きないのだ。
 女子に圧倒され気味な幸也の肩をツンツンと叩いて、頑張れよと応援を送る。
「来年は成人式よね? ぐんと背が伸びた訳でもないのに落ち着いた男の人って感じになっちゃって」
「それを言ったら、御園生先輩と時雨先輩は大人の女性になってて驚いたよ。サガン先輩はモデルだなんて、もっとびっくりした。でも、らしいと思う」
「大人になれたかな……私。イセリアさんモデル、は凄いと思います」
「や、おらは売れないモデル兼ショップ店員でさ。落ち着いた振りもしてたんだども、皆の前だとからっきしだ
 イセリアは手を振って謙遜しながらも、どこか嬉しそうだ。
 外では派手に気取っているつもりだし、中身も大人になったつもりだった。けれどこうして、昔馴染みの前で蓋を開けてみたらあら不思議。学生時代と変わらず、ふとした小さなことで心から笑える自分が顔を出す。
「ところで野生生物研究? おらも一回ついてってみてえなー」
「……でも、蟲とか怖そうです」
 音々は両手でマグカップを包み込み、震える声で言った。「そうねえ」と顎に指先を当てた深夜は「確かにちょっとグロテスクなのもいるわね」と言って頷く。
「アロバも大好きだったし、生物部も私の大事な居場所だったから。好きなことに没頭してるって感じね。今はまだ下っ端さんだけど。いつもは作業服で野山を駆け回ってるから、綺麗なんて全然ナイナイ」
 そう言って、自分の話は終わりにして皆の話に聞き入った。
「変わらないと言えば、ひなたさんはイメージそのままね。心にあった大人がそのまま大きくなった感じ?」
 ケーキを食べるのに一生懸命だったひなたは、頬にクリームをつけたままくすぐったそうに目を細めた。「ふむふむ」と皆の話を頭の中で整理していた未都は、神妙な顔でラテのお代わりを注いでまわる。
「モデルさん家業に服飾関係、生物研究に……ちょっと待って、いま旦那さんって単語が聞こえたよ?」
「あっ……」
 反応した結梨が肩を竦めて赤くなりながら、はい、と小さい手を挙げた。
「私です。実はもう、子供も……すごくやんちゃな子が」
「って子供!? 結梨さんおかーさんなっただにかー!?」
「やんちゃって、結梨先輩そっくりだ」
 驚いたのはイセリア、笑ったのは幸也だ。
「えっ、そ、そうなの?」
 結梨は意外だったのか慌てている。
「いまは素敵な奥様……憧れてしまいますね。お子さん私も会いたいです」
「お子さん、元気はやんちゃ?」
 深夜はほう、とため息。
 ひなたは小さく首を傾げてみせた。
「2世ちゃんも誕生して幸せ一杯だね。結梨さん、何時か旦那様にもココに来て貰えたら嬉しい」
「はい、是非! というか、今度皆も遊びに来て?」
 未都の申し出に笑顔で頷いた結梨は、にっこりと笑って言った。
「来年は幸也くんが成人よね。また集まりたいね、皆で此処に」
 息をついて、素敵な空間を眺め渡す。隠れ家的古民家風、と称するだけあってとても落ち着くというか、どことなく懐かしい感じがする。未都はこの場所を提供できたことに何よりも幸せを感じていたし、イセリアもまた、昔に戻ったような素敵な時間を大切に大切に味わった。
 ――また皆で集まりたい。愉しい時間はあっという間に過ぎ去って、店を出たのはもう夜の帳が下りきった後だった。

●居場所〜橙翠〜
 しあわせは、ここにあるよ。
 あのね、あのね、だいすき――。
 時の巡りを残酷たらしめるか、幸福たらしめるかはおそらく人それぞれの手に委ねられているのだろう。ふと、今の自分がここに在るのは過去の選択によるものなのだと追想する度にそう思う。
 学生時代から働いていた創作料理屋で腕を磨き、先日ついに資金も整った。
「あとは……彼女を迎えに行くだけ、か」
 そうして、朔姫はいま、ひどく嬉しそうに微笑む少女の眼前に立っている。ふにゃりと深い、彼女以外には決して浮かべることなどできないだろう微笑みだ。
 あまりにも懐かしくなって朔姫は、胸が締め付けられるような思いを味わった。
「ひさしぶり」
「うん」
 短いやりとり。
 朔姫が懸命に夢を叶えている間、雨色もまたとある店主に拾われて数年の歳月を過ごしていた。ゆっくりと丁寧に心を込めて作った卒業制作の製菓。それを評価してくれた人の元でやはり、懸命に日々を生き抜いた。
 全てはこの日のためだったようにすら思う。
「ねえ、どこ? どこにいくの」
「自然の多い片田舎だ。苦労もかけるだろう」
「あまいろ、なれてる、よ。くろう? へいき」
「頼もしいな」
 雨色、と不思議な響きの名前を呼ぶ。
「是非、私と一緒になって欲しい」
 言い終えるより先に雨色の手がぎゅっと朔姫の服を掴んだ。きつく握り締めた拳と、俯いて震える小さな頭。まさか嫌なのだろうかと朔姫が僅かに動揺した直後――。
 ぱっと顔を上げた雨色は満面の笑顔を咲かせて、ほんとうに幸せそうに笑った。
「えへへ。あまいろ、かぐやといっしょ、に、いく。よ」
「……いいのか?」
「ん。あのね。あまいろも」
 ――かぐやとつくるのが、いちばん、すき。
 繋いだ手は絶対に離さない。
 幸せはあなたの隣にあるから。
 朔姫の隣に、わたしのおかしを置かせてください。
「ああ、君が居てくれたら、私はきっと美味しい料理が作れる」
 胸を張って、それだけは保証しよう。
 二人で少しずつ、店の内装を整えた。メニュー表作りは何よりも楽しい。洋食をベースにした創作料理と和にアレンジしたデザートを仲立ちするのは、雨色特製のふんわり甘いお菓子だ。
「ん、しょ」
 開店の日、雨色は重いドアを押し開ける。
 ふと軽くなって後ろを振り仰ぐと、エプロン姿の朔姫が微笑んでドアを押してくれていた。外置きのメニュー看板は雨色の手作りで、かわいらしい絵がついている。
 ようこそ、いらっしゃいませ。
 素敵な店長とお菓子職人が居る、自然の中の料理屋さんへ。

●色彩〜ever〜
 遥か海を越えた異国の地で、亮弥はふとため息をついた。疲れが溜まっている。ドイツという国は職業訓練や学術方面の枠組みが洗練されており、博士課程を学籍登録なしで取得できるとはいえ……流石に普段の研究の仕事との同時進行は次第に亮弥の体力を奪っていく。
 だが、どちらかを諦める事はできない。
 というより、亮弥という人間はおそらく究極的にわがままなのだろう。欲するものには全て手を伸ばさずにはいられない、必ず己の手に掴み取ってみせる。
「大丈夫? 疲れているみたい」
 書斎の扉が開いて、一人の美しい女性が珈琲を運んできた。
 名を彩という彼の妻である。
 愛用のマグカップは白磁。ブラックが好きな亮弥のために珈琲が最も映える色を選んだ。ミュンヘンに構えた家の書斎は端然としており、本の匂いに珈琲の苦い香りが入り混じるこの瞬間はとても気分が和らぐ。
 自らを心配してくれる彩に対して、亮弥もまた慮るところがあった。
「いや、俺は好きでやっていることだ。だからつらくとも言い訳はできんし、するつもりもない。だが……あさ、お前はつらくないか?」
 問いかける亮弥の眼差しにほんの僅かな躊躇いを感じ取った彩はきょとんと首を傾げた後、首を横に振った。もちろん、最初は戸惑いもあった。時差、環境、言葉、生活習慣。日本とドイツでは何もかもが違う。特に友人や既知の人間との別れはとりわけ負担であったのではないか――……と。
 どれだけ彼女が友人達を大切にしていたかを側で見てきて知っている亮弥は思ってしまうのだが、彩は何ということはないとでも言いたげに口を開いた。
「大丈夫。銀誓館での日々を思い返したら、色んな人達と解り合えたなって。そしたら辛いなんて全然感じないの」
 亮弥の前に珈琲を差し出して、盆を両手に抱えた姿で彩はにっこりと微笑む。
 確かに友人たちとの別れはつらい。
 けれど、そんな彼らとだって最初から心を許しあっていたわけではないのだ。始まりは出会いから。ならばこの地でもきっと、そんな出会いはどこにだって待っている。
「それに花屋さんでの仕事も楽しいの。日本だと記念日とかお祝いの日くらいにしか花を買うことは少ないけれど、こっちだとみんな、普段から花を買って帰るのね」
 そうして、彩が余った花を持って帰って飾ることでこの家はいつでも新鮮な花の匂いに満たされている。
 ああ、幸せだ、と。
 家に帰る度、咲き誇る花に出迎えられる亮弥は骨身に染みて思うのだった。
 彩は小さくガッツポーズを作って、健気に言った。
「こみゅにけーしょんは心と笑顔と気合いっ! あ、もちろん独語も頑張るけどっ」
「ああ。もっと教える時間が取れればいいのだが……」
 小さな吐息は彩の生き生きした眼差しに救われる。
 大丈夫、と再び紡がれた言葉に嘘はない。
「亮弥は自分の夢を叶えることだけを考えて。わたしは、こうして傍に貴方が居てくれる。それだけで大丈夫なんだよ」
「あさ……」
 ありがとう、と声にならない声でつぶやいて彼女の指に触れる。
 自分と同じ左手の薬指には銀の環。その冷たい感触に心が引き締まる。これからも傍に居たい、居て欲しいというこの純粋な気持ちが力に変わってゆく。
「ああ、俺もだ」
 微笑んで、互いの手を握り締めた。

●転機〜もしかしたら通常運転〜
 お願いだから武器を構えないでください。
 えっ、俺が悪いんですか!?
 そ、そうですね……。
 ……いや、でもさっ、違うんだよ言い間違えたんだよ!
 もっかい、もう一回チャンスを下さい!!

「…………」
 冷えた眼差しで圭吾を見下ろす和装の女性。名を人魚。
「…………」
 怯えた様子で命乞いをする男。名を圭吾。
 祭に行けば妙な形の飴を贈り物に選んだり、子犬と戯れに行けば意味深な首輪を贈られるような世間ずれした二人にも春が来るのかと思っていたのに――。
 久しぶりに訪れた鎌倉の海。
 無事に就職して、昔より背も伸びて、これで一人前の男とばかりに得意げな顔で人魚に会いに来たこの男、圭吾は外見こそ随分と大人っぽくなった……意識する方が無理という話で、人魚は照れ隠しのように俯き、自分の指先をいじりながら彼の話に耳を傾けていた。
「えと、ひさしぶり。今日は大事な用があって、……あれ、背縮んだ?」
「……それ、ツッコミ待ちなの? そうなんでしょ」
「ぎゃああああすんません、なんか不思議な感じでつい茶化しちまいました!!」
 のっけからこんな調子で、気分を削がれた人魚は唇をとがらせる。黙って聞いていようと思っていたが、さっさと本題に入らせないと日が暮れてしまいそうだ。
「大事な話、あるんじゃなかったの」
「そう、それ! でもその前にご実家に伝わる妖怪が始末しといて下さい」
「……。ようかい?」
 まずい、どんどん流れが本筋から逸れてしまっている。
 真剣な話が性に合わない圭吾と、敢えて予感にも似た期待を顔に出さないように努めている人魚の間に微妙な空気が流れた。嗚呼、鎌倉の風が青年に冷たく吹きつける――……。
「だ、だってあれがあると俺が呪い殺されちゃうだろ」
 沈黙を破ったのは、圭吾の情けない声だった。
「呪い殺されそうなことするつもり、なの」
「ち、違……そうしないと近づけないっていうか、そのっ、ええいっ、一回しか言わないからよく聞けよ! 俺と……けっ、決闘してください!!」
 ――という叫びの直後が、冒頭に繋がる。
 先ほどよりも更に冷たい風が両者の間を吹き抜けていった。今までだって自分はさんざん馬鹿をやって来たし、命の危険を感じるほどの殺気を目の前の女性から感じ取ったことも数え切れない。だが、いま、彼女の注ぐ眼差しはあまりにも残酷だった。
(「ああ、さようなら俺の短い人生――」)
 天を仰ぎたくなる気持ちを堪え、土下座する。
 いっそ死んだ方がマシなプライドだなとは突っ込まないでください。
「刺されたいなら、お望み通りにしてあげる」
「ままままってください、もっかい、もう一回チャンスをください!!」
「一回しか言わないって言ったじゃない」
「わーん人魚サマーっ!!」
 その日、鎌倉の海を通りがかった人々はそんな奇妙な光景を目にする事になった。人魚はどちらかというと、怒りよりも呆れの感情に支配されていた。緊張した自分がお馬鹿さん。自分もまだまだ子供なのかしら、と肩を竦めて燦々と照りつける太陽をまぶしげに仰いだ。

●灯台にて〜漁星〜
 澄み切った空を潮風が吹きっ晒す夏の一日。隅に置かれた携帯プレイヤーからは懐かしい流行歌が軽快なリズムに乗って気分を盛り上げる。
 持ち物はバケツと花火と、手作りのお弁当。
 ニル、航汰、漣は揃って昔馴染みの灯台を訪れていた。赤錆た鍵を鍵穴に差し込むと、じゃり、という音が鼓膜を刺激する。ああ、もう随分な年月が経ったのだなとそれだけで感慨深い気分に浸った。
「……って、おい、埃っぽすぎんだろコレ。まずは掃除だな」
 戸を開けた途端、白い埃が一斉に舞い上がる。
 航汰は腕で口元を覆い、テキパキと指示を出した。
「俺と渦は毛叩き、漣は箒、花邑は雑巾な」
「はい、雑巾掛けならお任せあれ☆」
 じゃん、とニルは雑巾ごときを得意げに掲げてしたたたたーっと灯台の中に駆け込んでいった。降り積もる時間に覆われた、あの日と何ら変わらない灯台にじんわり……――。
「――……というより、普通に埃が目に入って涙が出てきませう! 航汰さ、もう少し優しく埃を落としてくださもぎゃー!!」
「男がちまちまやってられっか。一気にいくぞ、渦」
 にゃん、とステッキの代わりに毛叩きを持った渦は器用に棚の上へ駆け上ってぱたぱたふんふんと掃除に熱中している。「いい子ですね」と微笑んで、漣は「放棄係任されました」と誇らしげに頷いた。どこから掃こうかと辺りを見回して、それだけで数え切れないほどの既視感が蘇る。
 実際のところ、バスを降りた時から懐古の念に囚われてしまうことはわかっていた。
 昔と変わらない道程も潮騒の音も、自分の体に染み込んでしまっている。心地よい懐かしさだ。どれだけ埃を被っていようと、ここに残された昔の記憶はなくならない。過ぎた時間が埃臭い空気と融けあって、ああ、本当にここでの日々は昔の出来事だったんだなと理解した。
(「……と、懐かしがっていたら掃除が進みませんね」)
 胸中で己を叱咤して箒を動かそうとして、今度は流れてきた音楽に心を奪われる。
「あ、この曲! 航汰さんと漣さんが当時カラオケで歌ってましたよね!」
 ずい、と身を乗り出したニルの目はきらきらと輝いて、何かを期待しているような素振りだ。掃除の手はとっくに止まっている。
 ニルは無邪気にこぶしを振って、二人にねだった。
「あんこーる! あんこーる!」
「いいから手ェ動かせ、大体歌詞まで憶えてっかな」
「ええと、そうですね鼻歌程度なら……」
 記憶とさっき聞いたばかりの歌を頼りに思い出しながら、漣は探り探りメロディーラインを口ずさむ。
「歌は航汰先輩にお任せします」
「おい、毛叩きでリサイタルとかどんな羞恥プレイ」
「わお、ぱちぱちぱちぱち!」
 ニルが拍手を贈ると、渦がそれを真似して猫拍手。
 ぐっ、と息を詰まらせた航汰はこほんとせきをひとつして、お前がそう言うならと控えめな歌声を披露した。

 何とか一通りの掃除が終わった頃、時計はとうの昔にお昼を過ぎていた。通りで腹が空くはずだと、先を争うように狭い階段を上って潮風の通り道、つまりは展望台に昼飯の陣を張る。
「じゃんっ。漣さんが和風で来ると見越して、ニルは洋風で攻めてみまし……うきゃっ、らんちょんまっとさんが風で飛ばされっ、ままま待って」
「――ったく、ちゃんと持っとけこの馬鹿」
 柵を越えて飛び去りそうになったピンク色の布を、間一髪で航汰の手がつかまえた。
「ま、うまそうな弁当に免じてゆるす。実は期待してた」
 言うだけあって、航汰は見事なまでの手ぶらである。
 こうして灯台の中で話していると、あの頃と何一つ変わっていないような、そんな錯覚に沈み込みかける。なのに――潮風の匂いも空の色もあの頃と同じでありながら――確かに緩やかに時間は流れているのだ。
 隣のニルの髪の長さとか、漣の背丈であるとか、年季の入った灯台のヒビを眺めていると移り変わる時代のとりとめのなさを感じる。
「ココ、建て替える事になったんだってよ」
 漣手製の和風おにぎりを頬張りながら、航汰はまるで世間話のように切り出した。唐揚げや卵焼きとの相性が絶品である。漣はお茶を注ぎながら僅かに表情をかげらせた。
「それは少し寂しいですね」
「ああ、親父の管理じゃなくなるからホイホイ侵入することはできなくなる。でも、補修した照明に灯が点れば、こいつは本来の役割を取り戻すんだ」
 灯台。
 それは元来、船が迷わぬよう導く標の役目を担う。
(「世界と同じだ」)
 止まっていた時間がようやく動き出す。
 目覚め、――覚醒のとき。
「建て替えかぁ」
 しんみりと呟きながらも、ニルの横顔に未練はない。
 むしろ誇りのように満ちた気分だ。
「わたし達の標だった灯台が、もっと沢山の人達の航路を示してゆくのですね」
「はい。在るべき夜の海を照らす姿、きっと優しい光は心照らす標に。……あ、このワッフルおいしい」
「それ自信作でありまする! 5種類あってですね、あっ、航汰さん説明終わるまで待って下さ」
「うっせ」
 食えば分かる、と航汰はさっさと口の中に放り込んだ。
 潮風を浴びたせいか、甘いはずのワッフルはかすかにしょっぱい。

 西の空ばかりが薄く燃え、夜の帳が天のほとんどを覆い尽くすころ。地上では小さな火花がパチパチと弾けた。
「噴出系を手に持ってだな、そう、両手に何本かいっぺんに……」
 全ての指の間に挟んで八相というのも格好いい。
 どきどきと花火を選んでいた航汰だったが、渦の物言いたげな視線に気づいて嘆息した。愛しいお猫様の頭をぐりぐりと撫でて、一本だけに火をつける。
「ほら」
「わぁい!」
 砂浜の上で弾ける花火はめくるめく間に色が変わる。
 片時も目を離せずに見入るニルは、だから背後から忍び寄る――否、走り寄るそれにぎりぎりまで気づかなかった。
 シュルルルゥ――。
「はっ、この音。まさか鼠花っ――」
 察しの通り、煙を吹きながら近づいたソレはニルの足元でパチチチチッと弾けた。
「きゃわキャァァ!! こ、こんな悪戯を仕掛けるのは航……じゃなくて漣さん!?」
 名指しされた犯人は笑って誤魔化すどころか、逆に驚いている。
「えっ、あっ、すみません。そんなに驚かれるとは思ってなかった」
「そんなぁ、だってまさかの漣さん! 味方不在!!」
「失敬な。花邑をいじる暇があったら渦と線香花火楽しむわ」
「がーん!! 愛の反対は憎しみでなく無関心っ……」
 ハンカチを食い破るいきおいで悔しがるニルに、漣はお詫びと言って線香花火を渡した。花火の煌きは一瞬。ならば、と火薬を惜しむ気持ちなどどこかにかなぐり捨てた航汰はありったけのロケット花火を夜空に放った。海の向こうへと落ちる花火の尾が次の夏に繋がっている事を、彼らから教えてもらったから――。
(「――自分達も最後まで輝けますように」)
 祈りは漣の横顔を明るく照らす。
「お二人とも、覚えてます?」
 これを、と示されるのは、錨を沈めたボトルジュース。
「――忘れるかよ」
 有難う、と呟いて航汰はそれを握り締める。
 両手に乗せて、ニルはどきどきとその色を確かめた。
 金。
 眩いばかりに輝く、当たりの色。
「忘れる筈ありませんよ……!!」
 滲む瞳をぬぐって、にっこりと笑った。
「来年も再来年も、絶対に」
「ええ、約束は必ず」
「……ところで、三人でどうやって指きりすんだ?」
「え、ええいっ! 航汰さんの指にとーまれ!!」
「は、はい!」
「ちょ、ありかよ!」
 夏の海の果てに花火の尾が消えてゆく。
 後には静まり返った砂浜と寄せては返す波があるだけ。夏が過ぎ秋が来て冬を越え、そして春が終わる頃――きっとまたいつか、この場所に笑顔が集うのだろう。

●Meteor〜静月〜
 いくら手を伸ばしても届かない夜の天に、今日は特別な星が降る。両手両足を気高く伸ばした獅子座の心臓はレグルス。わやはふわふわの手袋をはめた指先で、空を示した。
「獅子座、あの辺り?」
 首元にはマフラーをぐるぐると巻きつけて、膝の上にはほっこりブランケット。可愛い黒猫柄のそれは来る途中に買った今夜のための新品だ。
 隣の戌彦も、今日ばかりは念入りに厚着している。暗い時はもうかけないはずのサングラスはともかく、フードはきっと、被った方が何倍にも温かい。
「わやの髪は魔法の髪みたいだね」
 あたたかそうだ、と褒めるとわやは得意げに胸をはった。
 ふわふわの癖っ毛は小さなわやの体を包み込むように腰までを覆っている。
「これだけでもあったかいんだよ」
「俺も伸ばしてみようかな」
 戌彦が真顔で言うと、冗談なのだか本気なのだかわからない。
 むむむ、と難しい顔になるわやにひとつ笑みかけて、戌彦は白い息を吐き出した。
「最近は結ぶことが多かったよな、その髪の毛」
「うん」
 そう。
 逆に言えば、昔はただ垂らしているばかりだった。
 だから、解くとその頃を思い出す。わやはぎゅっと戌彦の手を握り締めた。この大きな手が傍にいてくれた、それを何よりもよく覚えている。
「どうしたんだ?」
「ううん。あ、ココア。おいしいよ」
「有難う」
 こういう鑑賞会は、一人もいいが二人だと尚の事楽しい。
 受け取ったココアを飲み干して、戌彦はそろそろかと時計を確かめた。瞬間、視界の隅を煌きが駆け抜ける。
「いま、見えた」
「どこ、どこ?」
 わやが腕に抱きついてくる。
 物理的にもそうだが、心理的にも――というか、「あったかいよ」と言い張る口調が可愛くて吹き出してしまったからだろうか。
「ね、願い事し放題だよ。どんなお願いする?」
 すると、戌彦は唇の前に人差し指を立ててみせる。
 秘密、という意味だ。
 首を傾げるわやに微笑んで、戌彦は見入るように星空を仰ぎ見る。つられたようにわやも首を伸ばすようにして流星を探した。流星群といっても、雨のように降り注いではくれない。ひとつ、またひとつと思い出したように流れる星々を指差しては、次を心待ちにする。
(「来年も再来年もずっと一緒にいられますように」)
(「……これからもわやが、元気に育ってくれますように」)
 幾つの星を追いかけようとも、願い事はこれっきり。
 自分の腕にぎゅっとしがみつく子の健やかな日々を流星に重ね合わせて、きらめくような幸せが降り注ぐようにと、心の中で祈った。

●日常〜月の蒼さに〜
 氷女のマネージャー兼SP兼パートナー。それが2017年度におけるスペルヴィアの肩書きである。更にそのかたわら、マヨイガを使ってビャウォヴィエジャの森へ通い、欧州人狼騎士団の再興に助力する日々ともなれば多忙に多忙を極めた。
 ただし、スペルヴィア自身は傭兵家業からは足を洗っている。今はもっぱら、傭兵時代に培った情報網とコネ
クションを頼りに諜報・交渉面での支援に注力する毎日だ。
「氷女、急がないとリハーサルに遅れるぞ」
「わかってます。ちゃんとお弁当作っておいたから、持っていくのを忘れないでくださいねスペルさん」
「すまないな、わざわざ」
「いいんです。やりたくてやってるんですから」
 氷女はにっこりと笑って答える。
 歌手活動のスケジュールがどれだけ詰まっていようとも、愛するスペルの嫁家業を並行してこなすのが氷女の日常だ。
 スペルヴィアの安息の地であれるように。
 その思いであれば、仕事を理由に家事をおろそかにする事など考えられない。もちろん、要請があれば――それは本当に稀なことではあるのだが――ともに戦場に立つ相棒として、傷を癒し、ゴーストを討ち滅ぼすまで。
「……なんてやってると、学生時代から余り変わらないような気もしますね」
「そうか?」
 すっかりマヨイガ経由の『通勤騎士』が板についたスペルヴィアは弁当箱を鞄にしまいながら首を傾げた。十騎士補佐の仕事は補佐だからといって生ぬるいわけもない。だが、やり甲斐のある仕事だ。
「オレは結構変わったような気がするがな。今の方が何倍も幸せだ」
「それを言ったらそうですね」
 幸せは噛み締めるごとに味わい深さを増してゆく。
 いってらっしゃい、とどちらからともなく声をかけてまた、新しい一日が始まるのだった。

●ノットロンリー〜引退〜
 3月6日、二十歳を迎えたのを機に雪は能力者を引退した。
「10秒毎にBSチェックな体質で酒を楽しんでいられるか! オレは一般人に戻らせてもらう!」
 というのが彼の言い分だったが、継承者選びも椿庭の退団もスムーズに運んで当初の予定通り彼は一般人の仲間入りを果たした。雪の主張は一重に揺るがない。
 本当に良かったのかと尋ねる友人たちに対して、雪は次のように言ったものだ。
「銀誓館は能力者寄りすぎだ。情報公開に順応できない一般人は必ずいる。これからの脅威を軽減するにも必要なのは、予報士ですらなかったお前らみてえのだ」
 なるほど、と納得するものもいればいずれは能力者に戻るのに、と首を傾げるものもある。だが、世界結界がなくなるまでにはまだ猶予がある。
 この期間が最大の難関なのだと、雪は本能的にわかっていた。
 非順応一般人の情報を集め、対策を練ること。
 火種にならぬように指導するための活動を始めるにはむしろ、遅すぎるくらいのタイミングであった。

●南極戦役〜椿庭〜
「どうやら派手に暴れてもいいらしいな」
 英国でプロのロックシンガーとして活躍していた湊は、ステージ衣装のまま『戦場』に駆けつけた。そこは極寒の地――南極。
「みんな、一緒に来てくれてありがとう」
 振り返れば、英国で知り合った数人の探偵騎士が頼もしげに頷いた。
 自身もまたその力を受け入れた湊は、戦場の華となって力強い歌声を響かせる。肩から提げたギターをかきなせば、インカムを通して透き通った歌声が敵の武器を封じ、味方の傷を癒していった。
 
 2018年――

●日常〜金銀〜
 またやってしまった、とメイベルは恥ずかしい気持ちで台所に突っ立っていた。昔はツインテールだった髪も今は腰までストレートに伸ばしている。
 大学2年のこの時期、メイベルはドイツでリゼと二人暮らし中だった。彼女の通う大学に留学している都合上、自然な流れであったといえる。
「すまん、失敗した……」
 騒ぎに駆けつけたリーゼロッテもまた、卒業式の時よりも大人びた雰囲気を纏っていた。相も変わらず、美しく凛々しい顔立ち。ひとつだけ大きく違うのは、メイベルとは逆にそれまで垂らしていた髪をリボンでポニーテールにしているところか。
 リーゼロッテは思わずくすっと笑って、しょげかえっているメイベルを慰めた。
「何でも完璧に見える貴方でも、失敗することがあるのね」
「当たり前だ。我は別に、完璧なんてことはない」
 朝食当番だったメイベルはこの日、目玉焼きに挑戦して敢え無く失敗した。
 後に残ったのは焦げ付いたフライパンと炭と化した卵の成れの果て。リーゼロッテは彼女を責めるでもなく、粛々と後片付けを手伝った。
「ほら、メイベル。綺麗なお顔が汚れていますわ」
「ん……」
 ハンカチで頬をぬぐわれたメイベルは恥ずかしげに俯く。
「その、いつもありがとう。リゼのことはとても頼りにしている」
「ええ。料理ならいつでもお手伝いしますわ。大丈夫、次は失敗しないように頑張りましょう、一緒に」
「うむ」
 そこで終われば綺麗な話だが、あいにくと朝の忙しい時間帯が舞台である。はっとして顔をあげたリーゼロッテは時計がいつも家を出る時間を過ぎているのに気づいて、慌ててメイベルの手をとった。
「大変。遅刻してしまいますわ」
「なんだと……! 急ぐのだ、リゼ」
「はい!」
 鞄と上着をひっつかんで、家を飛び出す。
 そんな忙しい日々も二人だと何とか乗り越えられてしまうから不思議だ。走って走って、講義にはぎりぎり間に合うことが出来たという。

●世界中〜僕と君〜
 十六夜と一緒に世界を巡るようになってから、レンは彼女を通して見る全てが一変して表情を変えてしまったことに驚いた。
 具体的に言うと、世界が驚くほど美しくなった。
 セーヌ河の青い流れもグランドキャニオンの存在感もプリトヴィツェやビックベンの壮麗さまで、何もかもがまるで初めて見るような鮮やかさを誇り、輝いている。
 十六夜はといえば、彼女らしい凛とした眼差しでレンと同じ方向を見つめ続けた。初めて行く土地にも怖じることなく、むしろレンより早く馴染んでしまうことすらある。
「十六夜はしっかりしてるよね」
「そうかしら?」
 貴方の隣だからよ、とは十六夜が表情ひとつに告げた言葉だ。
 二人で欧州とアジアの境界を渡り歩いていた時のこと、肩を並べて歩く路地裏に気になるものを見つけたレンはふと興味をそそられて、十六夜と顔を見合わせた。
「古い教会ね」
「うん。今は使われてないみたいだ」
 どちらからともなく足を踏み入れると、砕けた窓から差し込む光が埃に反射して眩しく目を灼いた。
「ねえ、結婚式を挙げようか」
 それはただの思いつきであり、けれどずっと望んでいたことのように思える。「いいわね」と十六夜が同意した。卒業式の時、あっさりとレンについていくことを了承したのと同じ口調だった。
「ずっとこうして旅をしていたい。君と、おれと。もし終わりがあるならそれも、君と、おれで」
「ええ、人生の終わりも、貴方と、私で。つまり、ずっと一緒ということね?」
 レンの言葉を十六夜が継いで、二人きりの誓いと成す。
 神にでなく、誰にでもなくただ、お互いがお互いに誓う言葉だ。
 燦々とした陽射しが十六夜の髪に降り注いで、まるで光のヴェールを被っているように見える。レンはそれを除ける仕草を真似て、触れるだけの口づけを落とした。
「ずっと一緒だ、十六夜」
「もちろんよ、レン」
 恋人から夫婦になっても、きっと何も変わりはしない。
 レンの隣には十六夜がいて、十六夜の隣にはレンがいる。それがただ、いつまでも続いていく。そういうことだった。
 教会を後にする二人の手はいつの間にかそっと握られている。
 伝わるのは優しさ。
 それは二人が抱く同じ思いにほかならなかった。

●成人式〜世界夢〜
 どれだけ世界が変わっても、人の営みは根本的なところで変わらない。
「んしょ、っと」
 高校卒業後、里に帰郷したこはるはそれなりに幸せな日々を送っている。毎日朝早くに起きて、外の田んぼでお米の世話をする。今の時期は収穫も終えて暇な時間も多く、こはるは日なたを見つけてはラグドールの子猫となってぽかぽかお昼寝を楽しむのだった。
 けど、それも今日はお預け。
 二十歳になったこはるは大切な式を前にして、そわそわと着物の袖をこすりあわせた。
「変じゃない?」
 身内の前でくるりと一回転してみせるのは、成人式に着ていく振袖だ。
 髪を結い上げて、そうすると一気に大人びる。大丈夫だよという言葉信じて向かった会場で、こはるはすぐに親友の声を聞いた。
「あ、こはる」
 振り返った先には七海の姿。二人の距離はかなり開いていたが、お互いにひと目でわかった。七海いわく、「輝くような笑みが相変わらずだったから」とか。
 こはると対照的に進学を選んだ七海は、司書資格を取る勉強と共に経理、情報整理、エクセル関数について勉強している最中らしい。
「こはる、綺麗になったなぁ」
「七海もね。大学の方はどう?」
「ぼちぼちですよ。司書とパソコン関係の両立は結構忙しいですが、まあなんとかなるかと。こはるはなんだかたくましくなりました?」
「だって、外で野良仕事だもの」
 ちょっとは力もついたのよ、とこはるは力こぶを作る素振りをしてみせた。
「はは。こっちの話はどうなんですか? 故郷では引く手数多でしょう?」
「里はおっさんだらけだよ」
 中年や老年のおじさま方にちやほやと囲まれるこはるを想像してしまい、七海は小さく吹き出す。この素直でかわいい親友はやはり、もててしまって困るのではないだろうか。
「なに笑ってるの? ね、春になったら七海も遊びに来て」
「うん、絶対行くから。唐突にね」
 七海らしい請負い方にこはるは満足げに頷いて、そうだ、と思い出したように言った。
「もうお酒ものめるんだよ。勝負してみる?」
「いいですね」
 飲み会といえば成人式の華。
 式場からお洒落なお店に場所を変えたふたりは、子供時代には許されなかった大人の空間にどきどきしながら初めてのお酒を楽しんだ。
「う、にゃ」
「こはる、大丈夫?」
 こはるを心配する七海の方もふらふらしている。
 敢えて勝者を選ぶのならば、このまたたび酒であろうか。勝負は次に持ち越し。二人は真っ赤な顔で肩を寄せて寝息をたてはじめてしまった。

●卒業式〜椿庭〜
 例の飄々とした雰囲気を両肩に背負ったまま久遠が銀誓館学園の校門をくぐったのは、ちょうど式が終わった直後のことだった。同じ制服を着た学生の群れの中から素早く目当ての人を探し出して、大きく手を振る。
「卒業おめっとうさん」
「ありがとー!」
 最初で最後の制服姿を存分に披露すべく、更紗は久遠の前でくるりと一回転してみせた。
「えへへ、スリットのせくしーさにこだわってみました!」
 どやっ、と黒のニーハイロングに生足部分――既に死語っぽい絶対領域というアレだ――を指差して笑う更紗は相変わらず天然である。
「変わらないな」
「うん! って、うそ。来てくれたんだ!?」
 振り返る先に湊の姿を見て、更紗は大きく目を見開いた。
 湊――記憶喪失により失った本名を「ソフィー・フィリーベリ」。今は英国で有名なロックシンガーのひとりである。
 湊は「しっ」と指先を唇にあてて周りを警戒した。
「お忍びなんだ。マネージャーが血眼になって探してる」
「なんや、うかつに名前も呼べんわな」
 ひそひそと声を低めて、久遠はなるほどと頷いた。その足元で内緒話など素知らぬ顔、ケルベロスがはしゃいだように尻尾を振っている。本人以上に嬉しげな仕草だ。
「……お前も苦労したなぁ」
 久遠は労うようにケルベロスの頭を撫でてやる。
「えへへ、使役ゴーストの参列が認められるようになって良かった」
 もはや秘匿される情報でもするべきものでもなくなった、ゴーストの存在。更紗は彼の顎を撫でて「ありがとう」と笑った。
「ケルベロスも今日で卒業だね。皆の近況は? どんな感じなのかな」
 最後の方はやや取材口調になってしまった更紗のインタビューに、久遠はニッと唇の端を釣り上げた。順調、という意味である。
「じゃん!」
 そして懐から取りい出したるは、結婚式の招待状。
「結婚するのか」
 湊はまじまじとそれを眺め、中身を読み上げる。
 もちろん、久遠はそうだと頷いた。
 こころなしか顔が赤い。
「ようやっと、彼女を迎えに日本帰ってきてんよ」
「おめでとー!」
 あふれんばかりの拍手を送る更紗と、「よかったな」と頷く湊。
「なんだか……みんなすっかり大人になりましたね……」
 久しぶりに会う面子に驚いたり、微笑ましくなったり――資格の試験を控えていながら、李緒は結社のみんなが来ると聞いて、いてもたってもいられず駆けつけたのだ。
「勉強の方は平気なんか?」
 久遠の問いに、はい、と頷く。
「カウンセラーになるで、あともう少しです」
 李緒は気丈に微笑んで、それから改めて、更紗の卒業を祝った。記憶も戻り、今は過去を振り返る時ではなく未来を見つめる時だと知っている。
「四紀さん、卒業おめでとうございます。銀誓館でとても頑張ってたの、よく見てましたから」
「ありがとー! でもまだまだこれからですもの」
 卒業は終わりではなく一つの区切りでしかない。
 更紗の野望を鑑みれば、大変なのはこれからだ。「うむ」と頷いた湊は力付けるように更紗の背を叩いて励ました。だが、不意に肩を叩かれた彼女はぎくりと後ろを振り返る。そこには怒り心頭、にっこりと笑った湊のマネージャーの姿が――。
「ま、待ってくれ。抜け出したのは悪かったがもう少し待ってくれてもいいじゃないかー!」
 ずるずると問答無用で引きずられていく彼女を、久遠は大きく手を振って見送った。
「そんじゃ、さいならー。歌手活動頑張るんやで」
「CD買うよー!」
 更紗も助ける気はさらさらないらしく、ただ歌手としての彼女を応援するばかり。
「っと、ボクもそろそろ行かんと。挨拶周りが残っとるんや」
「じゃあね。これからも元気で、いってらっしゃい!」
 校門にしがみついて抵抗する湊と、軽やかに駆け出す久遠に手を振って、更紗はまたしばしの別れすら楽しむように笑った。
 別々の場所にいる時、まったく違う生活をしている皆はそれぞれに夢を叶えている。そうしてまた、いつか再会の時が来たら笑顔で報告し合うのだ。
「また、会おうね――!!」

 2019年――

●日常〜世は全て事も無し〜
「樹羅、楼花! 待ちなさい! また壁に落書きして!」
 今日も今日とて、新築の住居に楼心の声がこだまする。
 かなり盛大に叱られたというのに、双子はきょとんとした顔を見合わせている。しばらくしてからようやく目の前でしかめっ面している楼心の意図に気づいたのか、揃って廊下の向こうへと駆け出した。つまり、脱走した。後には落書きされたドアと散らばったクレヨンだけが残される。
「ああもう、こんなに散らかしちゃって……」
 子供達はすくすくと育ち、腕白盛り。
 楼心にはまったくもって懐かない――というか、言う事なんて全然聞きゃしない!
「二人ともちゃんといい子にしないと、おやつ抜きだからねぇ」
 あれだけ楼心が何を言っても糠に釘でありながら、沙羅が優しく諭すと、双子は「「はーい」」と口を揃えて大人しくなる。見事なお母さんの手際に、楼心は感心半分ヤキモチ半分、大きなため息をついた。
「沙羅の言う事ならおとなしく聞くんだから、父親は形無しだわ」
「そう? 楼心さんがちゃんと叱ってくれるから沙羅は優しくなれるんだよ」
 それはどちらが良いというわけではなくて、二人揃って意味を為すのだ。楼心はちょっと心に響いたらしく、もう一度双子たちの名前を呼んでみる。
「樹羅、楼花」
 おいで、と両手を広げると双子たちは不思議そうな顔で父親を見上げた後、ぷいと顔を背けて沙羅の両腕にしがみついてしまった。
「…………」
「ろ、楼心さんっ!」
 まったく、子供たちは正直だ。
 沙羅が何とか楼心を慰めようとした時、彼の携帯電話が不意に鳴り出した。楼心はすぐに通話ボタンを押して一言二言交わすと、もう父親ではなく別の顔をしていた。仕事人のそれ、死と隣り合わせに戦う能力者の顔である。
「お仕事だわ。それじゃ、行ってくるわね」
「はい、いってらっしゃいませ」
 大切な奥さんの頬と桜桃のような唇に口づけて、楼心はちら、と彼女の両側にしがみつく我が子を見下ろした。四つの可愛らしい黒目がちの瞳と出会う。
「……いてらしゃい」
「らしゃ」
 たどたどしい舌足らずな声に見送られて、楼心は「行ってきます」ともう一度告げた。双子たちを抱きしめて、磨かれた靴に爪先をすべり込ませる。
 能力者はこれからも続けていく。世のため人のため、何より家族のためにも――。
「家の事は任せてね。ここを守るのは私の役目だから」
「ええ、信頼してるわ」
 そして楼心は出かけていった。
 見送る沙羅の手には小さな二つの手が握り締められている。この場所を、この子らを守るために生きている幸せ。そんなささやかな幸福が集まって世界の未来を築く、その礎の名を二人はとうの昔に知っていた。

●音色〜congratulation〜
 その日、店のドアノブには『本日貸切』を意味する看板がかけられていた。木製のそれは瀟洒な飾りが施されており、昼はカフェ、夜はバーと顔を変える唯の店に相応しい。
 そう、今日は特別な一日なのである。
 すっかり気合の入った唯は腰に手を当てて高らかに宣言した。
「店もすっかり安定してきた今日この頃、可愛い妹のために一肌脱ぐとしますか! ジャック、手伝いよろしくな」
 相棒に一声かけて、唯は店内を簡単に整える。
 とはいっても念入りに掃除をして、テーブルの配置を少し変えただけだ。丸テーブルをひとつおいた傍にぽっかりと空白のスペースが出来上がる。
「……わ、ホントだ誰も居ない!」
 約束の時間より少し早めにやって来た結衣は、そっと開けたドアの隙間から中を覗いて歓声をあげた。すっかり常連客となってしまった結衣だから、この店がお客さんでいっぱいになっているところはよく知っている。それが、今日は自分と唯と、それにジャック以外いないのだ。
「そりゃ、今日は結衣のお祝いだからな。晴れて獣医師開業おめでとう。すっかり一人前の社会人だな」
 唯が開口一番祝いの言葉述べれば、結衣は少し照れくさそうに頭をかいた。
「えへへ、開業祝いありがとだよ。これからもボクが色々相談しに来たら、お相手してね? マスター♪」
「おう。俺も気付けば三十か。そろそろマスターなんて呼ばれるのが板についてきたかね」
 にやりと笑って拵えるのは、あの日、結衣のために作ったオリジナル・カクテル。あれからもう何度この義妹のために作ってやっただろうか。
 優しく淡い白がフルーツのイエローとピンクに映える、可愛らしいカクテルはそのままメニューに載せてもいいくらいの出来だ。。
 結衣が嬉しげに口をつけている間に一度奥へ引っ込んだ唯は、その手に愛用の金管楽器を携えてホールに戻ってきた。黒いバーテンダーの服と金色の楽器はよく似合う。
「今日はこれだけじゃないぜ。……さて、レディ。お祝いにトロンボーンで一曲どうかな?」
 なんでも好きな曲を言ってくれて構わない、と促せば結衣はしばし考えた末に有名なジャズナンバーをリクエストした。
「えっとね、じゃあ……『Fly Me to the Moon』が聴きたいな。お願いします♪」
「了解」
 どうやら、テーブル脇のスペースはこのために空けてあったらしい。
 結衣の座るテーブルの傍に佇んだ唯はすっと大きく息を吸い込んで、マウスピースに口づけた。滑るように指が動いてキーを操る。
 かつて「In other words」という題名で発表されたこのナンバーは1962年、ジョー・ハーネルが4拍子に書き換えてアレンジしたものがフランク・シナトラのカバーで爆発的なヒットを記録した。
 窓の外にはほっそりとした上弦の月。
 嬉しいのに何だか切ない気持ちも込み上がってきて、結衣はそっと潤んだ目の端を押さえた。唯はそれに気づかぬ振りで、ただ音色と旋律に思いを込める。
 こうやって祝い事を重ねてこれた日々が愛おしい。
(「これから先、じじばばになってもずっと仲のいい兄妹で居ような、結衣」)
 聞こえたはずはないのに、結衣はその時確かに頷いた。
「……これからもずーっと、仲良し兄妹でいようね。お兄ちゃん」
 
●日常〜4人で〜
 この小さな喫茶店。
 こじんまりとした佇まいは店主の気質を表すかのように無駄が無く、必要最低限のものが揃えられている。忙しい街から切り離されたかのように緩やかな時間と空気が流れる場所――どころか、最近はこれが意外と忙しかったたりする。
「おい、こらそこは駄目だ」
 客用の椅子によじ登って遊ぶ息子を抱え上げて、すっかり父親然とした燵吉は呆れたように笑った。
「ほんと、お前はどこにでもいっちまうな。あぶなっかしい」
 全部ひっくるめて俺の宝だと言い切ってはばからない燵吉は、近所でも評判の旦那さまである。常連の客なども最近では増えてきて、ランチの時間などそう広くもない店内は席が埋まってしまうほどだ。
「やだ、おむつが切れてる」
 家事に育児に喫茶店の手伝いと、水咲は慌ただしい毎日を送っている。
(「でも、幸せな悩みよね」)
 最近やんちゃに磨きがかかってきた長男の光流と、まだ手がかかる長女の倖春。目の中に入れても痛くない愛し子たちだ。それに何より、一人ではない。燵吉がしっかり支えてくれるから、何とかやっていけている。
「とりあえず、おむつは夕飯の前に買いに行くとして、お昼ご飯を済まさなきゃね。燵吉さん、そろそろ出来上がるわよ。急いで」
 と、厨房の奥から声がかかった。
「おう」
 すぐに答えて、燵吉はさっきまでその辺で遊んでいた我が子を探す。水咲にはただでさえ苦労をかけているのだから、飯の支度をしている時くらい父ちゃんの出番だろ、と胸を張りたいところだ。
「ったく、なに転がってるんだ」
 気づけば二人は、まるで猫の子のように椅子の下に転がってじゃれあっている。
 右に光流、左に倖春を抱えた燵吉は「それっ」と一目散に食卓へ駆け出した。小脇に抱えられた二人はキャッキゃと楽しげな笑い声を立てる。何かのアトラクションだと思っているのかもしれない。
「お父さんに抱っこ、いいわね」
 食卓には美味しそうな匂いをたてるスープが人数分よそられている。隣には焼きたてのパン。忙しくとも食卓は共にする、というのが一家言なのだ。
「さ、早く食べてしまってくださいな」
「ああ。……うまそうだな」
 忙しさに埋もれそうでいて、輝きを放つなにげない家族の時間。こういう素朴な幸せがまた、結構好きだったりするのだと、燵吉は柔らかな笑みを浮かべていた。
 水咲も微笑んで、倖春の口元にスープを運んでやる。
 幸せの青い鳥がすぐ近くにいたように、燵吉と同じく、水咲にとっても有り触れた毎日が一番の幸せなのだった。

 2020年――

●伊国ロマンス〜friends〜
「この日の為におやつ我慢してせっせと残業してきたのよ……!」
「右に同じ! 最近はこの旅行のために頑張ってたっつっても過言じゃねェ……!」
 色気の欠片もない千歳と古湖は、待ち合わせ場所で顔を合わせるなりハイタッチ。上がりきった気分のまま日本を後にした。
 一路目指すはイタリアの地。
 まずは前半戦、水の都ヴェネツィアへ特攻をかける。
 水路に浮かぶ町として有名なヴィネツェアは共和国の首都として栄えた都市であり、「アドリア海の女王」との異名を持っている。まさに憧れの街だ。
 土産物屋を覗く古湖の瞳は見入るヴェネチアングラスに負けず劣らず魅力的な輝きを放っている。千歳はわくわくと鏡の前でアクセサリーを試着しては、はしゃいだ声を上げた。
「かっわいい……!!」
 技巧的な細工がヴェネチアングラスの特徴だというだけあって、小さな耳飾りや首飾りは特に繊細なデザインが多い。青緑からライムグリーンに色を変える耳飾りを垂らして、千歳は古湖の意見を求めた。
「どうかな?」
「何それ、いい色合いじゃん」
「でしょ。古湖はやっぱりオレンジ?」
「へへっ、せっかくだしお揃いが欲しくなるよな」
 糸ガラスで花柄が装飾された球形のアクセサリーは、同じデザインのものが耳・首・手首用と三種類用意されている。
 気に入ったそれをお揃いで買い込んだ後はいよいよメインイベント、ゴンドラに初挑戦だ。
「こ、ここで切符買うのか」
「乗るときに刻印を押してもらうんだって、どういう感じなんだろ」
 さわさわとさざめく木陰に誘われて、数分ほど小径を歩いた先に船着場が見えてきた。陽気な男性のゴンドリエーレが手を上げて導く。千歳と古湖はぱっと顔を輝かせるなり、どちらからともなく差し出した手を繋ぎ駆け出した。
「すごいすごい、早ーい! 気持ちいいね!」
「うわっ、橋が! ぶ、ぶつかる……っ」
 ぶつからないぎりぎりで橋梁をかいくぐるゴンドラ上で、古湖は頭を抱えてうずくまった。頬に跳ね返る飛沫が冷たくて気持ちいい。ゴンドリエーレが披露する異国の歌に合わせて、二人一緒に陽気な旋律を口ずさむ。リズムと音程さえ取れれば即席の輪唱だ。
 水の街をすいすいと渡りきるゴンドラは、まるで生きているかのように淀みなく、スムーズに進んでいった。千歳は風になびく髪を押さえてそびえ立つ町並みを振り仰ぐ。
 なんて――なんて、爽快な風を帯びた街なのだろう。
「ね、気持ちいいね、綺麗だね!」
「ああ、もうずっと乗ってたい気分だ」
 終わってしまえばあっけない一時も、記憶の中では色鮮やかに生き続ける。地上に上がる時はまだ体が船の上の気分でうっかりよろめいてしまった。互いを支え合い、笑い合う。

 ヴィネツィアを堪能し尽くした後は南下してローマの街へ。
 ぺろっと舐めるジェラートは濃厚なチョコと苺の二重奏。煉瓦造りの町並みは異国情緒あふれる、という言葉がぴったり嵌っていた。
「なんつうか、イギリスの時も思ったけど同じ世界に住んでるとは思えないよなー。ファンタジーの中に紛れ込んじまった気分」
 などとぼんやり眺めていたせいで、古湖の手からジェラートが溶け落ちかかる。
「あぶない!」
「うわっ」
 千歳の声に慌てた古湖は、急いでジェラートを舐めた。甘酸っぱい。ちょうど食べ終わる頃、有名なトレヴィの泉にたどり着いた。投げ込まれたコインが水の底でキラキラと輝いて見える。こういうのが好きな古湖はいてもたってもいられずに、さっそく財布の中から硬貨を取り出した。
「コイン投げよーぜ!」
「うまく入るかな」
 ぎゅっと握り締めたコインを手に背を向けて、えいっとタイミングを合わせて放り投げる。
 放物線を描いて落ちる2枚のコインは回転しながら水面にとぷんと飲み込まれ、もつれ合うようにして他のコインと混ざり合った。
 親指を立て合い、成功を喜ぶ。
 日が暮れる頃には旅も終わりに近づき、僅かな名残惜しさとそれを上回る思い出の喜びに千歳は満面の笑顔で唇を開いた。
「ね、絶対にまた一緒に旅行しようね」
「もっちろん! ほかにも行きてェトコいっぱいあんだ。まだまだ付き合ってもらうかんな」
 口の端を小さく上げて笑う古湖の癖は昔から変わらない。
 進路も仕事も違うふたりだから、頻繁に会うことは難しい。けれどそのぶん会える時には遠慮なくめいっぱい、子供のようにはしゃごうと約束した。
 気兼ねなく話せて笑い合える、大スキで大切な親友に幸があらんことを。
 会った瞬間、昔に戻ってはしゃげる愛しい親友が笑顔で日々を過ごせますように。
「大好きだよ、古湖。しわくちゃなおばーちゃんになっても、ずーっと親友だよ!!」
「望むところだー!」
 古湖は肩を組むように後ろから千歳に抱き着いて、親愛の情を彼女に伝える。夕陽が二人の影を長く長く、広場の石畳に映し出した。
「おばーちゃんになったって、ずーっと大スキ!」
「ちょ、ちょっと古湖、声が大きすぎるよ!」
 周りにいた観光客や市民の視線が一斉に千歳と古湖に集まる。赤くなった顔を隠すように並んで広場を駆け抜けると、弾んだ息に鐘の音が追いついてきた。
 シエスタを愛する人々がそうであるように、異国の鐘の音はどこか大らかで愛しさを思い出す音色だった。
 
●日常〜イマジンオレンジ〜
 今日も一日の業務が終わる。
 朔姫は肩の力を抜いて、今日もまた一日平和に過ぎ行きたことを嬉しく思った。経営も軌道に乗ってきて、最近では少しずつ常連客がついてくれるようになった。数ある店の中からご贔屓に選ばれるというのは有難いものである。
「ばいばい、またきてね」
 最後の客を店の外まで見送ってきた雨色が笑顔で戻ってきた。
 常連客の女性で、雨色を可愛がってくれている。朔姫と目が合った瞬間、まるで子犬のように一直線に懐き寄るさまが健気で愛しい。
「今日もお客さん、いっぱいだったね」
「ああ、そろそろ一安心だ。ここまで続いたのも雨色のお陰だな」
 料理の腕には自信があるが、なにせ接客を苦手とする自分である。雨色がいなかったら今頃は……と考える度にに彼女の存在の大きさを実感するのだった。
「ありがとう」
 優しくその柔らかい髪を撫でると、雨色は首をぷるぷると横に振った。
 撫でてくれる優しい手のひらは大好きだ。
 けれど、お客さんがこの店を気に入ってくれるのはきっと、それ以上に朔姫が頑張っているから――。
「かぐやの、ごはんが、おいしんだよー」
「そうか? そういってくれるか」
 ありがとう、とやはり言われて頭を撫でられてしまったものだから、雨色は嬉しいのと同時にくすぐったい気持ちになった。
 そうだ、と朔姫は片付けを始める前に雨色をカウンターに呼び寄せる。
「新作メニューを作ってみたのだが、如何かな?」
「わ。わあい。あたらしいの。の?」
「今運んでくる」
 そわそわと椅子に座った雨色の前に出てきたのは、オレンジ色にきらめく朔姫特製の創作料理。薄切りにした鴨肉の上にかかっているのは色と柑橘系の香りから連想される通り、オレンジソース。小ぶりのグラスによそったゼリーは崩れたジェルと粒の食感を楽しんでもらえるようにポンカンから作り上げた。
「オレンジ、だー」
 ふにゃりと顔を綻ばせる雨色に朔姫は少し照れたように答える。
「どうにも柑橘類のメニューが増えてしまうのは、ご愛嬌だな」
「宝石みたい。だね」
 シンプルな銀の匙でそっとゼリーを掬えば、ぷる、と揺れてその向こうに色づいた世界を透かし見る。
 朔姫の料理はいつも、きれいでおいしくて、すごく幸せにしてくれる。それはきっと朔姫の優しさと真面目さが料理に存分に注ぎ込まれているせいで、けれどただ甘いのではなくちゃんと芯が通っている。
 そう、柑橘のさっぱりした香りのように。
「おいしい、すきー」
「そうか。なら採用しても大丈夫そうだな」
 美味しいと笑ってくれる顔が見れて、朔姫もご満悦だ。

 とある午後の休憩時間も、雨色はおいしいケーキとお茶の準備に頬を緩めていた。田舎とはいえ、昼時はそれなりに混雑する。嬉しい悲鳴だ。乗り越えた後はちょっとしたアフタヌーンティーの時間となる。
「紅茶葉は何にしようか」
「ダージリンー」
 おやつー。おちゃー。
 はやくはやくと催促する仕草は年不相応に幼い。
 雨色の笑顔にふと、この前の常連客の言葉が頭を過ぎった。
 詳しいニュアンスは違ったかもしれないが、恋人とか家族とか、そういう関係なのかと興味ありげに話を振られた事がある。
「?」
 よく磨いたティースプーンとクリームを用意していた雨色は、不意に黙り込んでしまった朔姫の横顔を覗き込んで、小首を傾げた。
「お悩みごと?」
「ん、ああ……」
 そのようで、そうではない。
 結論はあっさりと出てしまっていた。
 あまりに一緒に居るのが当たり前で、この生活が幸せで、だからついそのままにしてしまっていたのだけれど。だからこそ、しっかりしなければ、と。絆を確かなものに変えたいと心がささやいた。
 二人きりのアフタヌーンは、カウンターに隣同士カップを並べる。
 シフォンケーキには柚の香りのクリームを添えて、ダージリンには蜂蜜をひと匙。いただきます、とケーキにフォークを刺そうとした雨色は、そこに煌く銀の環を見つけて息を止めた。
「私と、家族になってはくれないだろうか」
「……かぞく」
「そうだ。……結婚してほしい」
 雨色、と名を呼んで華奢な手のひらに環を乗せた。
 雨色の意識の内に響く、たった三文字の言葉。容量の少ない脳はもういっぱい。やがて理解したのは、ずっと一緒にいていい、ということ。
 顔を上げると優しい瞳と目が合った。
 はい、と挙手する。
「あまいろ、かぐやのおよめさんに、なる」
 朔姫の瞳がかすかに揺らぎ、そして柔らかく細められた。
 改めて雨色の手を取り、左の薬指に環を通す。不器用だけれど、朔姫なりの愛を込めた仕草だった。額と額を軽く押し当てて、祈りを紡ぐ。
 ――どうかこれからも、おだやかな日々をふたりで。

●あれから数年後〜ふたりの場合〜
「時が過ぎるのは早いわねー」
 忙しい家事の合間、紅蘭は空を見上げてひとりごちた。
 彼と結婚して数年。二人の子供にも恵まれ、順調な日々を過ごしている。上の子はどうやら貴種の資質を受け継いだらしく、日増しに父親に似てくるようでちょっと心配だ。
「心配とはどういう意味だ、紅蘭」
「べっつにー。いいから早くご飯食べちゃってよ。片付かないじゃない。先生が遅刻なんてできないんだから」
 小学校で教諭をしている紅蘭は、能力者に目覚めた子供たちの指導をしている。要は「正しい力の使い方」を教えているわけだが、子供たちの吸収力はすさまじく、その順応性には圧倒される。
「この子達が大きくなる頃には、世界はもっと変わっているのだろうな」
 とっくにご飯を食べ終えて着替えを済ませる子供たちを眺めやりながら、ハーヴェイは未来に思いを馳せずにはいられない。二人の子供のよき父親になれているのか、はなはなだ疑問ではあるものの……悩んでいる暇などない。
 少しでもいい未来にするために、お父さんは日夜頑張っている。
「あのね、私、今本当にしあわせよ」
 それはむしろこちらの台詞であるな、とハーヴェイは彼女を後ろから抱き寄せながら思った。
「紅蘭がいてくれるから、今の私があるんだよ」
 願わくば、ずっと側にいて支えて欲しい。
「当たり前じゃない」
 これからもずっと、一緒にいてね。
 紅蘭は耳元で囁くように、ささやかな約束をひとつだけねだった。

●夢心地〜GT〜
 空と雲を見上げ、ゆったりとした晴天にひとつ頷いた。
「これで準備はよし、と」
 もうすぐ約束の時。
 皆と集まる日が近いと出かける支度を終えた音々は、大きく膨れ上がってしまった鞄を持ち上げて海の向こうの地を出立した。
「……必ず、会いに行きます」
 昔から持っている兎のぬいぐるみを抱き出発してから約半日――集合場所にたどり着いた音々は懐かしい皆の顔を見て、安心して手を振った。
「もしかして、ちょっと遅れちゃいました……? あぅぅ……ゴメンなさい……」
「はは、でぇじょぶだ。おらも今きたとこだに」
 イセリアはにっこりと笑って音々の頭を撫でる。
「で、目的地はすぐそこだら?」
 新しく発見されたGTは、遠くから眺めただけでも異様さとおどろおどろしさが分かる廃れた人形館だった。かつては栄華を極めたのだろう広大な洋館も、廃墟と化した今では見る影もない。
「うわ、ぼろぼろだ」
 唯一の男手として、率先して扉に手を伸ばした幸也は少し押しただけで崩れ落ちてしまったそれから慌てて手を引っ込めた。開いた扉の先には人形の墓場としか言い様のない光景が広がっていて――ごくり、と唾を飲み込む。
 埃を被った豪華な衣装を纏い、硝子の瞳を怪しく光らせる西洋人形の数々。ちょっと数え切れないほどの量がある。
 一部体の欠けたマネキンも何体か転がっていた。
「ひなたちゃんと音々ちゃんは少し興味津々?」
 結梨は感嘆の声を漏らす二人を振り返った。
「えと……その、お洋服の縫製、気になる……」
「ええ。何か、良い題材になりそうですね……」
 職人の卵としては、こんな状態でも好奇心が首をもたげてしまうらしい。なるほど、ぬいぐるみならと思ったが相手の方が一枚上手だった。幸也は女の子の強かさに舌を巻く。
「! 気をつけて、近づいてくる」
 警告に詠唱兵器を携え、身構えた。
 カタカタと震えた音を立てる人形たちのうち、特に禍々しい姿をした何体かがゆらりと蠢いた。ゴースト。今ではもう常識と成り代わった、超常に与するものたち。
「まだ、さまよい続けているのね……」
 深夜の唇からそんな言葉がこぼれた。
「世界は変わって行くのに、ここは時が止まったまま」
 変化は世界にとどまらず、深夜すら変えてしまうのかもしれない。あの頃は――銀誓館に通っていたあの時代、先を行く皆お後ろ姿を見届けるので精一杯だった自分はやはり、自分でしかないのだけれど。
(「皆がいれば、頑張れる」)
 起動――!!
「皆、戦いの後はお店でティータイムが待ってるよ!」
 奮い立たせるような、未都の言葉が飛んだ。
 敵の数は約十。
 大小様々な人形達を従えて、地縛霊型のゴーストが最後方から強力な範囲攻撃を繰り出した。未都は中衛で蟲笛を奏で、前衛に白燐の加護を施す。躍り出たひなたのオメガ、薄黄の咆哮が炎弾を撒き散らし牽制した。合わせてひなたは体勢を整え、二丁のガンナイフを構える。
(「うん、全然平気。忘れてないです!」)
 一番最初に所属した、元結社。
 信頼できる彼らと肩を並べて戦うのはもう、骨身に染みていて決して忘れることはできないのだろう。学生時代、このメンバーで何度戦ったことか。
「うおお、人形が沢山って有る意味お化け屋敷より怖ええな!」
 リアルな人形が本人いわく「ちいと」苦手だというイセリアは未都よりさらに後ろ後衛まで下がってヤドリギの祝福を発動。宙を迸るハートの先が幸也に結びつき、魔力を高める。
 庇われるばかりだった昔とは違う、だから今は前へ――。
 愛用の硝子剣を交差に構え、幸也は飛び出してきた西洋人形の頭突きを受け止めた。それでもダメージを消しきれず膝が落ちかけるが、すぐに未都の白燐蟲が援護してくれる。
(「大丈夫、きっとこう動くってわかる」)
 隣には音々の真ケルベロスオメガが黒刃を翼のように広げ、戦場を駆け巡った。空白の三年間も常に音々のそばにいたオメガ。絵が好きで世界中を旅している音々のお供でボディガードだ。全然売れなくて貧乏でも、好きなことをしているから後悔はない。
「止まって……ください……!!」
 茨に足を取られた人形の動きが止まった。
「今のうち、です」
「行こう、幸也くん。深夜ちゃん」
 素早く頷き、結梨は同じ前衛を担う二人を呼ぶ。少しずつ距離を詰めていた深夜は、ここ、と決めてエアシューズを一気に加速。右脇から繰り出すクレセントファングが弧を描ききる前に結梨の爆水掌が背中を深く抉った。
 頬を掠める傷など気にしない。
 ひなたが今も符を紡ぎ、励ましの声をかけてくれるから。
「やあっ!」
 ――止めは幸也の瞬断撃。
 瞬く間に一体目を撃破して勢いをつける。
「魔蝕の霧が効いている間に押し切る」
 伸びてくる手を切り払い、結梨に目配せを送った。伊邪那美の威力は衰えていない。場所が場所だけに増援にも気づきにくいだろう。結梨は前衛の中では一歩引いて、目を光らせる。
「来た、右! イセリアちゃん気をつけて」
「うあ、無機質な感じが、怖い!」
「はい、お人形、こんな風に、襲ってくる、とちょっと、怖いです」
 頷くひなたは台詞の割にあまり顔に出さない。逆にイセリアは見るからに顔が引きつっていて、「皆とは久しぶりだから暴れたい気持ちもアルンダニヨ……?」と震える声で言っても説得力がない。
「大丈夫、無理しないで」
「結梨さん頼もしいだにー!!」
 背後から茨の領域を重ねがけ、とにかく敵の数を減らさないことには話にならないと、ひたすら仲間の援護を続ける。
「祝福欲しい人は言ってくれなー。お祖父様! お祖父様はそこに立ってぜっったいに近づけないで頂戴だにー!」
 カシャ、と骨を軋ませて頷いたスカルサムライは未都と並ぶ位置で近づく敵をバッサバッサと薙ぎ払う。頼もしい、と侵食弾で弱った敵を撃ち落としながら未都は白燐光で館内を照らし続けた。
 世界結界も完全崩壊に近づいて、日々の戦いはますます激しさを増してゆく。
(「みんな、本当にたくましくなったなあ……」)
 皆の背中を守り続ける力を、怯むことなくずっと持ち続けていたいから――立ち止まってなんていられない。振り返っている暇なんてない。
「波立つ未来にも前進あるのみだよ!」
「ん、がんばんべ!」
 イセリアの茨が更に深く展開、ついに動けているのは敵ボスの地縛霊のみとなった。
 人形繰りの糸でこちらを牽制するその攻撃はしかし、後衛にまでは届かない。音々の紡いだ森王の槍が最後の人形を貫き、地縛霊への道を開けた。戦いの最中なのにわくわくする、不思議な気持ちだ。久しぶりで戦う皆は格好よくて頼もしくて、怖くなんて何もない。
 音々の脳裏に皆と出会った小さい頃の記憶が蘇った。
 ありがとう。
 広い世界を私にくれて、そばにいてくれて、本当に有難う。
「今度は良い人の手い抱いてもらって……」
 屍となった人形を踏み越えて、高々と跳躍した深夜のエアシューズがエッジを尖らせる。場所を開けるため幸也が下がった。援護する結梨の唇に笑みが翻る。けれどすぐに表情を引き締めて、最後の戦文字を描いた。
「観念しなさい!」
「もう、眠ってです」
 ぴたりと定められた銃口。
 数多の人形を蹴散らして、いま、止めの一発が放たれる。
 ひなたの指先がトリガーを引いた瞬間、地縛霊はそちらに意識を取られすぎていた。肩口を貫く弾丸よりも先に跳んでいた存在を忘れている。
「――ッ!!」
 私の、深夜の懐かしいはじめの一歩の技。
 ――クレストファングの、抉るような鋭い蹴りが地縛霊を切り裂いた。着地した深夜は眩しい気持ちで皆を振り返る。
「お疲れ」
 幸也が切り出して、結梨が頷いた。
「お楽しみのお茶会だね」
「はい!」
「任せて。とびっきり腕を振るうから」
 ひなたの笑顔につられて、未都が約束する。一足先に人形館を脱出したイセリアはさっきまで怖気づいていたのも何のその、大きく手を振って早くと急かした。
「今度はいつ会えるでしょうか」
 戦い終えてしまった名残惜しさを抱えて、音々が尋ねる。
「いつでも待ってるわよ。会いたいときに帰ってきてちょうだい」
 そして、未都のいれてくれたお茶を飲みながら話に花を咲かせよう。夢心地な時間はいつだって皆と一緒にある。いつでも、どこにでも。

●日常〜歌姫が待つ家〜
 夜刀がゴースト征伐に行っている間、子供と家を守るのはみゆの役目である。子供は双子。お姉さんと弟の二人は夜刀を見送ってから何となく元気がない。
 二人ともお父さんのことが大好きだから、寂しいのかもしれなかった。
「ね、お父さんに皆でとったお写真、送らない?」
 ほら、とスマートフォンを見せると、二人はそろってぴくりと反応する。自分達の方から駆け寄ってきて、みゆの両脇にぴたりと寄り添った。
「……意外と難しいね」
 使い方はこの間、夜刀に教えてもらったから完璧なはずだ。
 それにしても自分を撮るのは骨が折れる。「まだ?」と首を傾げる子供たちもそのうちに「がんばれ」と応援してくれた。
「これで、どう?」
 ようやくのこと、撮れた写真を戦場の夜刀宛てに送信する。
 1%……34%……100%送信完了。
「お父さん、喜んでくれるかな?」
 子供たちと顔を見合わせて、写真が届いた時の事に思いを馳せた。
 そして祈る。
(「どうか……無事に帰って来てくれますように」)
 距離は離れていても、この祈りと想いは常に貴方の傍にあるから。

●能力者のお仕事〜someday〜
 何処からその話を聞いたか、そんな事は知らせの中身の驚きに比べたらさしたる問題ではなかった。慌てて職場に電話した茲は「有給下さい」と皆勤賞をふいにする言葉をこぼしていた。後輩や同僚は不思議がって理由を知りたがったが、茲は曖昧にごまかした。
(「だって、あの古嶋が戦うと聞いたらもう、見に行くしかないだろう、全力で」)
 手助けに行くとか心配だからとかいうよりも、「見たい」という好奇心が上回るあたりが茲である。有給休暇をもぎとった茲は続けてコジロウの携帯電話を呼び出した。
「あ、古嶋? 聞いたよデビューはいつ?」
『え? いやもう毎夜のように働いているが何か……』
「え、もう!?」
『ああ、今も追い詰めている最中だが、はっ、後ろから新手が!!』
「ちょっと待って、ああもう出遅れた。もういい、今からいく。場所は?」
『助かる。一日では倒しきれない量のゴーストであふ――……』
 電波障害の合間に何とか場所を聞き出して、茲は急いで支度を進める。随分とご無沙汰だった蒐音を手にした途端、白燐蟲が体内で活性化するのがわかった。
「もきゅ?」
「いくよ、浮楼。保健室常連だった彼が倒れないよう応援しに、ね」
 最後にモーラットヒーローの相棒を肩に乗せて茲は家を飛び出した。
 一路、ゴーストの巣食う街外れの廃墟へと。

「歳も30になったっつーのに……」
 夜刀は相変わらず、『蒼氷』たる愛刀を手に夜の廃墟を颯爽と駆け抜けている。戦うのは好きであるし特に不満があるわけではないのだが、何というかこう、まさか六十のじいさんになってもこんな事してんのかと考えてしまうわけだ。
「孫と一緒に戦えるじいさんか。ま、悪くねぇ」
 ひとりごちて、逃げる狼型妖獣を路地裏に追い込んでいた時のこと――見知った顔と鉢合わせた夜刀は意外そうな、けれど予想はしていたとばかりの笑顔で彼の名を呼んだ。
「あっれ、コジロウじゃん。お前もここに来てたん?」
「夜刀!?」
 まだ自分が運命予報士だったあの時、襲撃から守り抜いてくれた仲間の顔と名を忘れられるわけがない。コジロウははっと目を瞬いて巨大な鮫剣を手に足を止めた。その背後に迫る別の妖獣が牙を剥いて飛びかかる前に、夜刀のダークハンドがアスファルトの上を高速で迸る。コジロウが壁となって気づくのが遅れた妖獣は牽制どころか横腹にクリティカルを食らって悲鳴を上げた。
「ほれほれ、よそ見してっとあぶねぇぞ」
「む、囲まれてしまったようだな」
 夜刀に背を預け、コジロウは辺りの闇に視線を巡らせる。
 爛々と輝く瞳がこちらを見つめていた。数匹の狼型とそれらを統べる熊型の巨大妖獣の群れ。狩っても狩っても根絶やしにできず、各地から能力者が出向いているゴーストタウンのうちのひとつだ。
 一瞬即発の空気を破って、バイクのエンジン音が近づいてくる。改造バイクらしきマフラーから黒煙を吐き出しつつかっ飛ばして来たライダーは戦場の端に急停車して意外そうな声をあげた。
「えーと、古嶋先輩……ですか? お久しぶりですー。混ざっていいですかー?」
 笑顔でバイクを飛び降りたのは業である。
 夜刀は顎で敵を示した。
「ていうか、責任取ってやっつけろ。奴さんら闖入者にびっくりして興奮しちまってんぞ。俺の帰り待ってる子供と可愛い奥さん居るっつーのに死んでやれるかってーの!」
 覚悟を決めて飛び出す夜刀と、楽しそうにエアシューズで駆け出した業は対照的な太刀筋を披露する。
「それはすみませんでした。言われなくとも、嬲り殺してあげますよ♪」
 戦端が今にも開かれようかという時、新たな人物が「はい」と緊張感なく挙手した。
「それ、僕も混ぜてもらっていいかな?」
「僕もー!」
 片や雷人、片や小春の二人は戦闘の気配をたどる途中で行き合ったのだった。雷人はまじまじとコジロウの姿を見て「なんだかずいぶん雰囲気が変わったね?」と呟いた。それもそのはずで、制服の上にストールを巻いていた病弱な少年は今、動きやすい服に靴、それに凶々しい形態の剣を携えている。
「わ、新鮮で頼もしい」
 一歩遅れで保護者――戌彦を連れて駆けつけたわやはにこりと笑って挨拶代わりのナイトメアランページを見舞った。白馬の疾走に妖獣がひるんだところへコジロウがイーティングブロウを叩き込む。
「おー、コジロウかっこいい」
「ヨガで鍛えた体力を舐めてもらってはこまる……!」
 わやの拍手に気を良くしたコジロウはそのまま突進しかけて小春に止められた。殺到する妖獣の群れは同時に展開された不浄泥濁陣によって足止めを食らう。
「初めまして、若梅という。宜しく頼む」
 フードの端に触れつつ簡単な挨拶を交わす戌彦の視線は既に次の獲物を捕らえていた。援護は任せろ、とミストファインダーの準備もぬかりない。
「わや、君の連れは頼もしいな」
「へへ。自慢のお兄ちゃんです」
 鋏を構え、コジロウが囲まれないように脇を固める。駆け抜ける妖獣の牙が肩を抉るも、「大丈夫」と微笑んだ。戌彦の方が痛そうな顔をしているから、心配しないでとVサインを作ってみせる。けれど戌彦は、わやが辛いときでも絶対に弱音を吐かないことを知っているから鵜呑みにして安心することは、ない。
(「過保護ってやつかな……」)
 もう子どもとは言えない歳になってきたというのに、自分は相変わらずわやに関しては心配性が直らないようだ。
 そんな気配を察したのか、わやは自分から戌彦に声をかける。
「わかお兄ちゃん」
 それだけでわかる。
「あぁ、行こう」
 迫る敵、息を合わせて放つ攻撃――!
 泥に足を取られて沈む敵を的確に撃ち滅ぼすナイトメアランページ。
「……派手にやっているようだね」
 相変わらず戦っている自分に苦笑しつつ、穹は森王の槍を紡いで加勢に加わった。こんなに労の多いことなど敗残の兵でなければやるものかと昔は思っていたにも関わらず、守りたいものができると人間は現金なものでである。出番を待つ祖霊の方々にはお待ちいただくようにお願いして、放つ森槍が妖獣の眉間を貫いた。
「今日は懐かしい顔が多いな……」
 感慨深い、というよりは本当に不思議そうな顔でコジロウが呟く。
 そうだね、と適当に流した穹は緩やかな微笑みとともに尋ねた。
「胃薬は、まだ必要そう?」
「いまのところは、胃の心配よりも傷の方が非常にまずいような気がする!」
 無謀にも前線から引かず剣を振るうコジロウである。言わんこっちゃない、と小春が盾になるように前へ出た。
「前向きなコジロウセンパイにはなんか慣れない……って、だからツッコミ過ぎちゃダメー!」
 と、彼が叫ぶのと戦場に蜘蛛の糸が張り巡らされたのとが同時だった。緊縛陣を張った主は穹の背後、ひらひらと手を振って先輩風を吹かせる舞夜である。
 あたしはあたしであるから、未だにゴーストと戦っている。
 そう豪語する舞夜らしく、穹に背中を預け預けられ、今夜もこうしてゴースト退治に精を出しているわけなのであった。 
「まさかコジロウが能力者になっていたとはね。驚き」
「やはり、似合わないだろうか?」
「ううん。夫婦風を吹かせるチャンスだと思っただけ」
 さらりと惚気て、行こう、と赤手を掲げる。
 なるほど、と穹はヤドリギの祝福で彼女を援護する。基本を抑えた夫婦風の連携が特大のハートを描いた夜空の下にようやく茲が滑り込んだ。
「うわ、佳境に入っちゃってるよ」
 これは積もる話よりもまず敵を倒すのが優先とばかりに白燐蟲を呼び出して、ひと目でそれとわかったコジロウの元に駆けつける。コジロウの方もすぐに気づいて、安心したような笑みを浮かべた。
 茲は小さく笑って挨拶代わりの白燐奏甲を彼の呪剣に与える。
「お互い老けたなあ」
「何を言うか、まだまだ盛りの二十代……!」
「もきゅっ!!」
 もふもふ3割増しの浮楼は張り切って盛大な火花を散らした。
「色々話したいこともあるけど、後回しかな」
「うむ。ちょうどボスが残っているところだ、いいところに来た」
 睨む先には後ろ足で立ち上がった凶悪な熊妖獣が立ちふさがっていた。近くの山から下りてきたらしく、鋭い牙と爪を持つ。茲は瞬時に回復援護に回ると決めて、中衛の位置まで下がった。雷人と並んで、白燐蟲と舞の二重援護を為す。
「無理して怪我しちゃダメだよ?」
 だが、コジロウは足を止めない。
「怪我をしても、君達が癒してくれるだろう?」
「ったく、倒れちまってしらねぇぜ!」
 口ではそう言いつつも、夜刀は業と共に彼の両脇をしっかりと固めて闇を迸らせた。小春も含め、厚い前衛だ。それに後衛からの回復援護もぬかりない。最後は立て続けに集中攻撃を食らって、熊妖獣は仰向けに巨体をひっくり返らせた。
「お疲れ様ー! ところで、この後暇ならどっか食べに行きません? ご飯未だなんで……」
「悪い、俺は待ってるやつらがいるから速攻で帰らんと」
 業の誘いに夜刀がすまないとすかさず謝りを入れたのは言うまでも無い。飯屋を探す道すがら、コジロウは茲との約束を果たしていた。 昔の――もう八年以上も前に交わされたそれが叶う日を、茲はずっと楽しみにしていたのだ。コジロウは楽しそうにネットで作成したホロスコープ片手に講釈を始める。
「茲は牡牛座か。おおらかな君らしいな……しかもその太陽に山羊座で合の海王星と天王星が120度で繋がっている。夢想と天才性の結合を意味する座標だが、これが山羊座にあるというのが面白い。本来なら地上から解き放たれた高い霊性を与えるこの合も堅実で生真面目な山羊座にあってはしっかりと根を降ろした大樹のような安定感を感じる」
 まるでアンテナを備えた木のようだ、とコジロウは茲を評した。
 本来、実を結ばないはずの形無き理想が大輪の花を咲かせるような、そんな不思議なイメージがする――と。そう言い結ぶ。
「ん?」
 仲間と別れて帰宅する途中、夜刀はメールが来ていたことに気づいて新着を確かめた。『おとうさんへ』――そんな題名のメールには家庭で彼の帰りを待つ妻と子供が笑顔で映る写真が添付されていた。

●帰宅〜蛇の休息〜
 どんなに戦いが辛くとも――否、辛ければ辛い戦いの後でこそ、この家に帰る時の幸福感は限りない。帰る場所は決まっている。
 夜刀は自然と足が早まるのを感じた。可愛いちび共と、可愛い奥さんが居る家。まだ電気がついているのを見たらもう、親バカと言われようと思わず駆け出してしまっていた。
「お帰りなさい」
 玄関のドアが空いて夜刀が顔を見せた時、みゆはようやくその言葉を言うことができた。
(「よかった……」)
 今日も、無事に帰ってきてくれた。
「ただいま」
 やっと帰ってこれた、と夜刀も安堵の吐息をもらす。
 みゆは変わりない夜刀の姿に涙ぐみそうになって、懸命に堪えた。しんみりした顔を見せたら彼が安心して仕事に向かえないから、自分はいつも笑顔でいると決めたのだ。
「ちび共、おかーさん困らせたりしてねーかー?」
 父を待っていた子供たちは、眠る前に会えたことが嬉しくて、喜び勇んで夜刀の元に走っていった。それまでは気丈に振舞っていたのに抱き上げられた途端、泣き出してしまう。
「……ちょ、俺の高い高いはそんなに嫌かー!?」
 もう片方も膝にしがみついて、「びええ」ともらい泣きをはじめてしまった。
 何しろ、泣き方がすごい。
「おかーさん、助けてくれ」
 思わず真顔でみゆに助けを求めてしまうほど、まさに火がついたように泣いている。
「嬉しいんだよね? お父さんが帰って来たから」
「そうなのか? だって、なんかすごい勢いで泣いてるぜ」
 もしかして嫌われてるのかと、夜刀は少し情けない顔で子をあやした。だが、それにしても泣き止まない。みゆは大丈夫、と笑った。
「その証拠に、泣いても離れないでしょ?」
「ほんとか? 嫌われてる訳じゃ無いの?」
「当たり前じゃない」
 そのうちに子供たちも不安を解消しきったのか泣きやみはじめ、夜刀もようやく安心できたようだ。その肘のあたりの服をつん、と引いてみゆが何か忘れてない、と小首をかしげた。
「ん?」
「子供だけじゃなくて……」
 わたしにもちょっと構って欲しいです、旦那さま。
 小声で囁かれた夜刀は虚をつかれたような顔で瞬きする。その発想はなかった。照れ隠しのように子供を揺すり上げてから、愛する妻の頬に触れるだけのキスを降らせる。

●トモニ、ユク〜和彦〜
「なんだ、結構……呆気ないものなんだな」
 脇腹を抑えた指先からこぼれ落ちてゆく赤い液体。多分ここで死ぬのだろう――静かな、けれど確かな予感とともに和彦は廃墟の壁にもたれかかった。敵ゴーストの殲滅と引換えに食らった最後の一撃。相打ちの結果が、これだ。
(「ごめん……」)
 自分の帰りを待ってくれているはずの家族を思えば、胸が痛くなる。体の方はもうとっくに痺れて冷たくなって、痛みらしい痛みは既にない。もしかしたらもう、意識を失っているのかもしれなかった。死を、絶対的な終わりが迫っているというのに不思議と恐れはない。
 それどころか、満ち足りたような気分だ。
 心霊写真に写った地縛霊の思念、就職試験に遅れるところだった女の人、腐り沼で亡くなった無念の霊――倒したゴーストや助けた人々の記憶が走馬灯のように蘇る。どれもこれも、学園で過ごした日々の思い出だ。死と隣り合わせに生き、様々な人に出会い、別れ、乗り越えたあの青春時代。
 とりわけ、鈍い痛みと鮮烈な輝きをまとった記憶がある。
 死んだ先には何も無いと知っているけれど、もしかしたら――あの、かつての戦友に会えるだろうか。
「……ご……くらい、……めを見たって良いだろ……ぃ……藍……」
 微かな呻きと、何かを掴み取ろうとするように動く指先。
 ――なぁ、睡藍。
 何処かで出会えたら全力で拳を交わそう。
 既にこの世のどこにもお前がいないというのなら、俺はいま、そちら側に行く切符を手にしているのかもしれない。自然と笑みがこぼれた。こぼれたような、気がした。
 もはや和彦の指はぴくりとも動かない。
 薄く開かれた瞳からは急速に生気が失われ、打ち捨てられた硝子のように曇りゆく。いつのまにか、和彦本人ですら気づかないうちに呼吸がとまった。
 いち、にい、さん……何分か遅れて、心臓が動きを止める。
(「大丈夫。俺はちゃんとこの世界に生きた証を残した」)
(「だから、友達になろう。睡藍。もう一度、今度はお前のそばで」)
 あの日、そう、ちょうどあの日もこんな風に冷たい冬の風が吹いていた。敦賀の地でお前が消えた日の事だ。あのときからずっと願っていたことなんだ、だから――。
『  』
 今からお前の名前を呼びに、逢いに行くよ。
 言葉はもう言葉の形を為さず、遠い意識の底に沈み込んでゆく。暗い闇を抜けた先に世界がめくり変わり、和彦は最後の心残りを果たす為にこそ、己を手放した。

●7月23日〜直人の誕生日〜
 30歳の誕生日――。
 奇妙な感じがする。
 こんな大人になってまで誕生日を祝われるというのは気恥ずかしい反面、本当は……凄ぇ、嬉しい。直人は暗くした室内に輝く三十本のろうそくをひと息で吹き消した。肩に乗った鴉のクロスケは火が怖いのかどこかに隠れてしまっている。
「ハッピバースデートゥーユー♪」
 わざと調子っぱずれに歌う主は春一。直人の相棒だ。何やら指折り数えだしたかと思えば、やけに感慨深そうな顔でしみじみと口を開いた。
「こうしてハッピーバースデー歌うンもひぃふぅ……15年目かァ」
「なんだよ、だから何なんだ?」
 直人が首をかしげると、春一はその肩を抱き寄せて笑った。
「ンとに変わりやがら無ェわねーェ」
「……別に、俺は大人になんざなりたくねぇし」
 あまり生えてくれない髭を気にしている直人は、自分の顎を撫でながらぼやく。顔立ちはそれなりに老けたものの、それだけが悩みの種だ。
「良いじゃ無ェのーォ。年取りたく無ェって言いやがってたンだしーィ?」
「五月蝿ぇ! ガキ扱いすんじゃねぇ!」
 直人は春一の胸ぐらを掴み、軽く頭突きをくらわせる。すると、お返しに春一のキックがとんできた。じゃれるように喧嘩をはじめる二人の横で、それまで静かに座っていたヒューがやれやれと肩を竦める。
「クロチュケ君、本当にナオもハルも変わらないねえ」
 おいでおいで、と物陰から様子を伺っていたクロスケを呼び寄せて買ってきたフライドチキンの蓋を開けた。好物の登場に直人と春一の動きが止まる。
 にこ、と笑ったヒューは獣を餌付けする調教師のような口調で言った。
「君たちはこれが好きだからねえ。沢山用意してきたのだよ。だが、どうもナオもハルも喧嘩で忙しいらしい。私達で先に食べてしまおうか、クロチュケ君?」
「なっ、喧嘩なんてしてねぇ。こいつが俺をからかうから」
「しかし、ナオが変わらないのは本当だからねえ」
 反論できず、直人は黙り込んでぷいと背を向けてしまった。心配したクロスケに嘴でつつかれても反応しない。春一に視線で責められたヒューは慌てて弁解をはじめた。
「いや、しかしなんだね。確りはしてきている故、拗ねないでくれ給えよ……!」
「なーかしたァ、オッサンが瀬崎泣かしちまった!」
「泣いてねぇ!」
「泣かせてはおるまいよ!」
 はやし立てる春一に、直人とヒューの主張が被さる。
 騒々しい誕生日となってしまったが、これで通常運営なのだから仕方ない。切り分けたケーキを口に運びながら交わされる何げない会話。仕事はどうだとか、ゴースト退治の武勇伝だとか。一緒に住んでいるというのに――否、住んでいるからこそか。こういう機会でもなければ煩雑な日常に追われてゆっくりと話し込む暇もない。
 それにしても、と春一は横目でヒューを眺めた。
「オッサンの老けなさにはびっくりだケドなァ」
 元々年齢不詳なところのあるヒューではあったが、歳を重ねてその特技に磨きがかかっているような気さえする。
「そうかね? 自分ではやれやれ歳をとったと実感するのだが」
 ヒューの口ぶりはまさに嘯く、といった様子で直人はため息をついた。このオッサンの言うことを真に受けていたら身がもたない。
「兎に角! 誕生日おめでとサン、な!」
 シャンパンを注ぎ直して、春一はグラスを高々と掲げる。
 仕切り直しの乾杯が、チリンと澄んだ音を奏でた。

●12月〜Ich liebe dich〜
「えっと、上着上着……」
 そろそろ寒くなってきたからと先日買っておいたキルティングの子供用ジャケットを探している間に、当の本人はとことこと歩き去ってしまう。
「あ――」
 こら、待ちなさい。
 そんな声をかけようとした彩は、先に幼子を抱き上げる亮弥の姿に言葉を切った。新聞を読んでいた亮弥は足音に気づいて振り返るなり顔を綻ばせ、目が合って駆け出す愛娘をその腕に抱き上げてしまう。過保護だと分かっていても、自分の膝くらいまでしかない幼子はいつ転んでしまうかとひやひやするのだった。
「もう、幾ら可愛いからって甘やかし過ぎだよ」
 言葉とは裏腹に彩の表情は笑っている。
(「だって、貴方が至極嬉しそうに娘を抱くから」)
 愛してくれている、という喜びと背中合わせの、軽い嫉妬。ちょっと妬けちゃうな、なんて冗談半分に思っていたところへ首をかしげた亮弥が口を開いた。
「……あさ、何かおかしいか。お前と俺との娘だ、可愛くないわけがないだろう」
「――」
 あまりにも真っ直ぐな、亮弥の眼差しとその言葉。
 何かひらめいたような素振りで彩に近づいた亮弥は、幼子を抱き上げたまま、何も言えないでいる彩に唇を寄せた。
「娘にまで嫉妬するな」
 緩やかにこぼされた笑みは、まさに彩殺し。
 ――ずるい。
 その名の通り反論を封じられてしまった彩はちょっとだけねだるような、少女の頃に戻ったような顔で言った。
「その笑顔はまだ暫く、わたしだけの専用だよ」
 二人の間に挟まれた娘はきょとんとした顔で両親を見上げている。彩は思い出したように探してきた上着を彼女に着せかけた。そう、これから出かけるところだったのだ。
「街は混んでいるだろうな」
「はぐれないようにしないと、ね」
 クリスマス前、最後の休みを使って街へ買い出しに向かう。彩は娘の頭を優しく撫でて尋ねた。
「サンタさんに何お願いするの?」
 ちら、と横目で亮弥を窺えば、苦笑めいた色を唇に乗せている。
「少々ぎこちないサンタクロースだろうが笑うなよ」
 来るクリスマスに必ず、サンタクロースは現れる。素敵な聖夜になるのだろうなと、彩は今から期待で胸が膨らんだ。父親に抱き上げられた娘は先の事よりも、今目の前にある街のイルミネーションに心奪われている。
 素敵な毎日。
 きっと、ずっと続いていく幸せいっぱいの日々。
「あさ、お前がはぐれるなよ」
 亮弥は微笑んで約束する。
 世界で一番の愛情をお前たちに贈るから――と。
 
●同窓会〜Beautiful World〜
 久方ぶりに日本の地を踏んだプルミナはその懐かしさに目を細めた。風も雑踏も、かつて知っているそれとは随分と様変わりしている。けれどそれを寂しいとは思わないくらいには、プルミナも成長していると言えた。
 同窓会の会場で見知った顔や同期の知り合いと挨拶を交わして、プルミナは改めて過ぎ去った時の長さを実感する。
「お父様ですか? 再三の説得にようやく納得されたようで、地域の領主のネットワークを通じて、世界の実情と今後につういて方針が固まりましたわ」
 誇らしげに報告して、また、仲間たちの近況に耳を傾ける。
 プルミナは時期領主として辣腕を奮うことになる。
(「これからも、みなさまと世界のために……」)
 この身を捧げるのだと、決意はやはり揺るがなかった。

 2021年――

●12月1日〜春一の誕生日〜
 その日も春一は飄々と鼻歌など歌いながら帰宅した。
「ただいまーて、夕飯凄ェ豪華なんだケド!?」
 いつも通りのつもりでダイニングに入ったら、そこにはパーティ会場かと錯覚するほどの絢爛な食卓が春一を待っていたのだから驚きである。
 実は、遡ること半日前。
 珍しく気合を入れて前掛けなどつけた直人が相棒・篠田の三十歳の誕生日を祝うために腕を振るったのだ。それも一年に一度あるかないかという凝りようで、季節柄、メインの鶏肉料理は七面鳥を丸ごと使っている。不気味な格好で盛り付けられていくさまを、同類のクロスケは興味ありげな様子で見守っていた。ヒューはと言えば、相変わらずマイペースに眺めていたという有様である。
「そういや俺の誕生日だっけか。すっかり忘れてやがってましたわーァ」
 玄関に靴を脱ぎ散らかした春一は、犬のように大急ぎで部屋に駆け込んだ。しみじみと豪華過ぎるラインナップを確かめて、ついで照れ隠しのように鼻の頭をこすっていた直人を振り返る。
「これ瀬崎チャン作ったン!?」
「ん? ああ、別にこれくらい普通だ」
 素直でない直人に笑みをこぼして、既に席へついていたヒューがやれやれと嘆息した。
「忘れていると思っていたけれども、本当に忘れているとはねえ」
 相変わらずズボラな同居人だと、物語の中から抜け出してきたかのような風体の男は自分のことを棚に上げてつぶやく。つい、と指を伸ばして春一の顎をなぞりながら物憂げな表情だ。
「全く、髪も私と同じ位に伸びて、顎鬚も生えて……本当に大人っぽくなったのに、抜けているというか……」
「そうだ、髭!!」
 触れてはいけないところに触れてしまったヒューのおかげで、直人は前々から思っていた不満をぶちまける機会を得た。
「何でてめぇの方が髭濃いんだよ!」
 ヒューの言うとおり、篠田は大人の男らしくなった。
 自分のコンプレックスを刺激された直人は眉を寄せてふてくされたついでに、ヒューの隣でツンツンと料理を啄んでいるクロスケを差し向ける。
「クロスケ、篠田の髭を毟れ!俺が許す!」
 「カァン」とひと鳴きしたクロスケは黒い翼を広げて春一の頭に舞い降り、赤茶けた髭めがけて嘴を突っついた。「ぎゃァ」と悲鳴をあげた春一は慌てて応戦する。だが、身軽なクロスケの方が一枚上手だ。
「く、クロチュケ!俺のチャームポイントの顎髭毟りやがら無ェでくれやがりますーゥ!?」
「クロチュケ君、髭は抜いてたらペッするのだよ。食べてしまっては腹を壊してしまうからねえ、うん」
 助け舟を出すどころかさらにけしかけるヒューである。
 孤立無援、四面楚歌。
 誕生日のはずが、主役どころかいじめられっ子状態の春一は散々クロスケから逃げ回った挙句、彼が飽きてしまうことでようやく解放された。お腹の減ったクロスケは食べられない髭よりもご飯の方にご執心らしい。ヒューに宥められた直人は直人で、気を取り直すように髪をかきあげながら台所に向かった。
「んじゃ、飯にすっか」
「はァ、はァ、ま、守りきりやがりましたーァ……!!」
 椅子に身を沈みこませてガッツポーズを取る春一の前に料理を取り分けてやると、彼は口元を緩めて祝辞を受け取る。
「さて、宴をはじめようか」
 演劇の語り部めいた口調でヒューが手を叩き、祝いの夜がゆっくりと幕を開けた。
 
●家庭訪問〜pure〜
「やっぱりちょっと緊張するな……」
 変なところはないかな、とユエは通りがかったお店の窓ガラスに自分の姿を映してみる。少女の頃は男の子に間違えられまくっていたユエも、今は銀誓館に勤める教師のひとり。スーツに身を包んだ格好はまだ初々しさを残していて、私服だと学生に間違えられてしまう事も多かった。
 けれど、今日はきっちり髪も結い上げて先生然としている。なにしろ、初めての家庭訪問――しかもお相手が『あの』獅堂夫妻のお宅とあっては緊張半分楽しみ半分、ユエの心中も穏やかでない。
「ユエが子供達の担任か……世間は狭いものだ」
 玄関先まで迎えに出た荒十朗は感慨深げにつぶやいた。
「ああ。家庭訪問でうちにユエが来るなんて……な。久しぶりだな、ユエ。といっても先日のPTAで会ったばかりだが」
 今年小学校に上がった双子はよくユエに懐いており、自分達から階段を駆け下りて出迎えに現れた。ユエは何となくくすぐったい気持ちになりながら、案内された居間に腰を下ろす。
「私も、まさか2人の子供を担当する事になるなんて思わなかったな……っと、つい昔のノリで話しちゃうなんて、先生失格?」
 慌てて口元を手で押さえ、いけないと反省した。
 だからといって、学生時代に散々世話になった荒十朗とカイルを前に敬語で話すというのも難易度が高い。荒十朗は笑って相好を崩した。
「話す内容さえそれらしければ、言葉など些細なものだ。他に誰か聞いているわけでもないしな。どうだ、うちの子供たちは? 先生に面倒をかけていなければよいのだが」
「う……」
 ユエは言葉に詰まる。
 実際のところ、彼らの息子のやんちゃっぷりはクラスでも一、二を争うほどでユエも手を焼いているのであった。話を聞いた荒十朗は肩を竦め、カイルはお茶のお代わりを淹れながら他人事のように言う。
「まったく、誰に似たのか……特に男の方はやんちゃが過ぎるんだよな」
「……」
「――」
「? なんなんだ?」
 ユエと荒十朗が微妙な顔で自分を見ていることに気づいて、カイルは首を傾げた。言っている本人が昔やらかした無鉄砲の数々を知っている二人からすれば、自明の理である。
 仕方なく、荒十朗は苦笑めいた顔でため息をついた。
「自分の事になるとまったく疎いな君は」
 はて、と瞬きを繰り返すカイルは本当に無自覚なようだ。
(「やんちゃ……ってそれは間違いなくカイルさん似なんじゃ……」)
 さすがに本人を目の前にして口にするのははばかれた。ユエは物言いたげな目でカイルをちら、と見た後で取り敢えず口を噤んでいることにする。
 同じく一言ありそうな荒十朗は、けれどユエと同じくそれ以上追求することはなかった。こほん、と咳払いしてから今度は娘の話に切り替える。双子というのは同時に行事を済ませられて楽なような忙しいような、不思議な存在だ。
「ああ、何も問題無いよ。しっかりしてて、面倒見もいい」
 そうか、と荒十朗は満足げに頷いた。
「まあ、俺達の子供で担任がユエならば、そもそも問題があろうはずも無いが」
「それはちょっと褒めすぎだってば……!」
 まだ新米教師のユエは慌てて謙遜するが、そういう反応に彼女の変わらない真っ直ぐなひたむきさが垣間見えて、カイルは嬉しくなる。
(「うちの子達もそんな風に育ってくれればいいな」)
 と、本人をそっちのけで願ってしまうくらいには。
「ところで、ユエの方は子供の予定はまだなのか?」
「えっ」
 まさか家庭訪問先でそんな質問を受けるとは思っていなかったユエは紅茶にむせて、咳き込んだ。「大丈夫か?」と真顔で尋ねるカイルに悪気はない。四年前、学生結婚した彼の顔を思い出しながら、ユエははにかむように言った。
「子供かぁ……私も2人みたいなしっかりしたお母さんになれるといいな」
「生まれたらすぐに連絡してくれ。可能な限りの協力をしよう」
 大切な仲間だからな、と荒十朗が微笑む。
「うん。その時はよろしくね」
 ユエはにっこり笑って紅茶を飲み干すと、鞄を取って席を立った。
「それじゃ、次のお家に行かなきゃ。今日は予定がみっちりなんだ」
「ああ、今日はありがとう」
 わざわざ門まで見送りに出てくれた二人に大きく手を振って、ユエは歩き出す。先はまだ長いけれど、何かあっても仲間がいれば乗り越えられる。それは確信だった。

●魁〜智康の場合〜
「はぁ、はぁ、はぁ……!!」
 北欧アルプス、とある山の峰を軽装で登る男の姿がある。素手で掴んだ岩を登り、時には転がり落ちかけながらも一歩、また一歩と上り詰めていく。
「俺は……こんな所で負けらんねぇ……鬼のように強ぇ先輩達を超える為……否、せめて攻撃食らっても1ターンくらいは立っていたい」
 ささやか過ぎる願いに、聞いているものがいればきっと涙したであろう。
 それに、と忘れるわけもない少女の笑顔を思い出しながら拳を握り締めた。
「日本で待ってるはずのあいつを驚かせてやる為にも、俺は……! アルプスの神様よ俺に力を!」
 たった一人で異邦の地を訪れた智康はまず、良質な岩場を探して歩き回った。
 その途中で滝を見つけては瀑布にうたれ、火山の噴火口を見つければ火渡りだと叫んで無茶にも近寄ってゆく。幾人かの登山客や探検家とすれ違ったが、彼らは智康を指して一様に「クレイジーだ」とのたまった。
 だが、智康にはどうしても譲れない目的があったのである。
「これか? なんか違うな。もっとこう、でかくて綺麗ぇであいつが……ドロシーが喜びそうなんじゃねぇと」
 ツルハシ片手にぶつぶつと呟く姿は確かに異様だ。
 と、背後に殺気を感じた智康はとっさに破魔矢を投げつける。既に世界結界は虫の息。となれば、このような秘境などゴーストの領域と言っても過言ではない。
 背後に立ちふさがっていたのはまるでドラゴンのような姿の妖獣だった。
 智康は自分を奮い立たせるように唇の端を釣り上げる。こめかみを伝う冷汗には気づかないフリをして、叫んだ。
「んだてめぇ……! 先輩達に比べたらてめぇなんざ屁でもねぇぜ!!」

 2022年――

●日常〜葛馬と紫の場合〜
 2018年に大学を卒業。それなりの出版社に就職した葛馬はそこで、2020年浅木紫の担当となる。その後は二人三脚で漫画を生み出し続け、ついに2022年プロポーズをするに至った。
「戦いが終わっても十年ですか……」
 ふと振り返れば、こうしてほぼ平凡な一般人の生活をしていることが嘘のように思える。やっと生活も落ち着いてきたことであるし、世界結界が本格的に崩壊してしまった後ではまた事情が変わってしまうかもしれない――。
 意を決した葛馬は予約しておいた店でディナーを楽しみながら、紫に胸の内を打ち明けた。
 彼なりに一大決心をして告げたのだが、それを受けた紫の返事はむしろあっさりとしたものである。。
「ちょっと待たせすぎじゃないかしら」
「すみません。というか、それはOKということでよろしいのでしょうか?」
 そこが一番重要なのだが、紫は何を今更とばかりに笑い飛ばした。
「あと一年待たせたらこちらが首根っこ捕まえて役所と教会連行するところだったわよ。……でも、嬉しいわ。葛馬がきちんとプロポーズしてくれるなんて」
 勿論OKよ、と。
 ようやくその言葉を聞けた葛馬はほっとしたように肩の力を抜いて紫を見つめる。
「駄目だったらどうしようかと思いました。
「何言ってるの。貴方以外の人と過ごす未来なんて思い浮かばないもの」
 グラスを傾けて、紫はにこりと微笑む。
 見た目から本心がわかりにくい紫のことだ。本人はそうした自分の特性を意識していないのかもしれなかった。
「分かってるとは思うけど、私の事幸せにするのは葛馬の義務よ」
「幸せにする、と言い切る自身はありませんが。できる限りの努力はしますよ」
「それでいいわ」
 ここで「幸せにします」と言い切れるような男であればきっと紫は惚れなかったであろうし、そんな自信たっぷりな葛馬など何の魅力もない。
「まあ、私は全身全霊をかけて葛馬を幸せにしてあげる」
 楽しみにしてらっしゃい、と。
 紫は艶然と笑ってみせた。

●特別な日〜わやと戌彦の場合〜
 ふわふわと腰まであった髪の毛を、わやは二十歳になってすぐにばっさりと切り落とした。手入れせずに伸ばし放題だったそれは彼女の少女期がどういうものであったのかの象徴であって、それを失ったということはきっと髪を切ったという事実以上に深い意味を持つのだろう。
「似合うかな?」
 耳の辺りで切りそろえたショートボブを手のひらで押し上げるようにいじりながら、わやは戌彦の顔を覗き込んだ。
「似合う」
 きっぱりと即答した戌彦の目が潤んで見えたのは気のせいだろうか。
「わやお兄ちゃん、泣いてる?」
「ちがう。これは心の汗だ」
 まるで我が子の成長をいとしむ親父のようだと自分でも思ったので、戌彦はそんな冗談でごまかした。だって、わやが。あのわやが二十歳。感慨深すぎて涙のひとつやふたつ出たって不思議じゃない。否、出ないやつなんて人間失格だ。
 成人祝いに街へ繰り出した二人は洒落たバーを選んで腰を落ち着けた。
 初めての酒。メニュー表を手にとったわやはきょとんと首を傾げて戌彦に尋ねる。どれがおいしいの、と聞かれてそうだな、とページをめくった。
「お酒、苦いのは合わないかな」
「苦いの?」
「ビールとか」
 試しに飲んでみる、と戌彦は自分が頼んだグラスをわやに手渡す。
 一口舐めただけでしかめっ面になるわやに吹き出しそうになるのをこらえつつ、幾つかのカクテルの名を挙げた。
「この辺りならどう? 甘いのがいいよな」
 仕上げにザクロ色のグレナデン・シロップを加えた赤い色のカクテルを選んでもらったわやはまず、その綺麗な色に感嘆の吐息をもらした。背の高い華奢なグラスに注がれた液体の中でピンに刺されたチェリーとレモンがきらきらと輝いている。
「おいしい」
 味は甘酸っぱいジュースのようで、わやはあっという間に飲み干してしまった。
 いくらでも飲めるよ、というお褒めの言葉は有り難いが、そういう飲みやすいカクテルに限って意外と度数が高いのだ。はらはらと見守っていた戌彦の前でわやはたちまち真っ赤な顔になってうつらうつらと船を漕ぎ始めた。
「わかお兄ちゃん、枕ー」
「はいはい。こうなると思った……」
 ころんとソファに寝転がったわやは、戌彦の膝に頭を乗せてもう夢見心地である。このまま寝たらきっと気持ちのよい夢を見られるに違いない。
「なんかね、ふわふわしていい気持ちだよ」
「ふわふわ? ああ、わやの髪はふわふわだな。昔と変わらない」
「……ちがうよ……髪もふわふわだけどね、んとね……」
 最後の方はよく聞き取れなかった。
 大丈夫、と戌彦は優しくわやの髪をすく。
「ゆっくり休んでいい、ちゃんと此処に居るから」
「ほんと? ちゃんとここにいてね。絶対だよ」
「ああ。絶対、だ」
 やさしい声と手と、交わされた約束に安堵してわやは目を閉じた。否、もうとっくの昔に夢の中だったのかもしれない。
 夢の中でわやは戌彦と一緒に旅をしていた。
 草原を越え、瑞々しい小川を渡ってどこか新しい土地を目指している。歌を歌いながらどこまでもどこまでも、終わりのない旅を楽しんでいた。

●月夜〜new world〜
 死人の匂いを察知してしまう度に、輝流は自分がゾンビハンターであることを再認識する。その日も特に際立った用事があったわけではなく、普段通りの外出中に起きた事件だった。
「で、追跡してみたところ見つかったのがコレ、か」
 路地裏にひっそりと佇んでいたのはまだ子供の姿のゴーストだった。まだ、とは言ってもゴーストは成長したりしないし残留思念の塊が具現化したものだから、この辺りに核となった子供のそういう未練の情が漂っていたのだろうと推測される。
 それはあどけない子供のリリス。
 ぎゅっとぬいぐるみのように蛇の頭を抱いて、こちらを窺っている。
「敵意はないし、保護対象って事でいいのか?」
「多分な。その手の案内人に連絡を取るか」
「じゃ、俺が連絡しとく」
 輝流が連絡を取る間、零はしばしリリスの相手をすることになった。聞けば仲間とはぐれたらしく、もう何日もこの辺りを徘徊しているという。一歩間違えれば保護どころか討伐されてもおかしくない状態にあった。
「……連絡は着いたか?」
 輝流はすぐに戻ってきた。
 まず銀誓館学園に電話して、そこから専門の能力者を派遣してもらう。手配はすぐに済み、すぐに迎えに来てくれるという話になった。
 それを聞いた零は安堵の息をもらす。
 見つけた自分たちが送り届けても構わないのだが、まだいろいろ安定していないこともあって専門の人に任せた方がいいというのが結論だった。
「そっちは何話してたんだ?」
「大したことじゃない。どうしてこの場所にいたのかとか、仲間はいないのかとか、その辺りだ」
 へえ、と相槌をうつ輝流の視線は自然と子供のリリスに向かう。怖いのか、リリスは蛇の頭を抱きしめたまま不安げな目で彼を見上げた。
 それがあまりにも普通の子供のように見えて、輝流は気づけばその頭を撫でていた――。

「…………」
 意外な光景に零は目を見開いた。
 輝流が、子供の姿とはいえゴーストの頭に手を乗せている。とはいえそれきりで、特にやさしい言葉をかけるでもなくそっぽを向いてしまう辺りはまだまだといったところなのだろうが……。
(「あの輝流が、ね」)
 彼の過去を知る零にとってそれはあまりにも意外に思えた。
「何だよ」
 視線に気づいた輝流が問うような目でこちらを見る。
「いや、別に」
 言って、零はリリスと目線を合わせるようにその場へ膝をついた。きょとんとした顔で零と輝流の顔を交互に見つめるリリスに、安心させるような口調で告げる。
「大丈夫。このおじさんは怖い人じゃないから」
「……怖く、ない?」
「ああ、本当だ。ちょっとぶっきらぼうだけどな」
 おい、と突っ込みを入れたのは他でもない、輝流だ。
「いま聞き捨てならない単語を聞いたぜ。せめてお兄さんって言えよなー」
「三十路超えたらおじさんだろう?」
「お前もな!」
 口喧嘩では勝てないと知りつつも輝流は負け惜しみのように叫ぶ。もう一度頭をぽんと撫でてやると、彼女は最初のうちこそ警戒していたが、そのうちに少しずつ二人に歩み寄るようになり、迎えが来る頃にはほとんど打ち解けてしまった。
「…………」
 別れ際、寂しそうな目でこちらを見たリリスに輝流は手を振ってやる。それまでの短い間、彼女の境遇や領域の話を交わしていた零はずっと尋ねたかったことをようやく口にした。
「……割り切る事は出来たのか?」
「ん……いや」
 曖昧に笑って、輝流は手持ち無沙汰に歩き始める。
 夜の街は相変わらず天を焦がすほどの明るさで、星々の輝きを打ち消すほどに己を主張してやまない。輝流にとってゴーストは大事な人の仇だ。それは今でも変わらない……が、色々経験を積んで、ゴーストにも色々あると知った。
(「だけど、ゴーストはやっぱりゴーストで……」)
 さりとて、すぐに考えを変えられるほど若くもなく、けれど固執できるほど老成してもいない。まるで心の内を読んだかのような相棒の問いかけに、輝流は仕方なさげに笑った。
 本当にどこまでお見通しなんだ、俺の大事な相棒は。
「正直まだまだ、だな……でも、ゴーストが全部悪じゃない。人を傷つける前に何とかできれば、人もゴーストも『護る』事が出来る」
 そういうのも悪くないと、最近ようやく思えるようになった。
 笑顔を作って、零を振り返る。
「俺は欲張りでわかままだから、さ」
 ゾンビハンターである輝流が苦心していたのは知っている。
 だからこそ、零は10年かけて変わった、その答えに少しだけ笑って言った。
「それなら、いい」
 そういう我が儘なら喜んで付き合おうと、相棒の全てを引っくるめて引き受ける。
「さて、そろそろ買い出し再開と行こうか。夕飯、何がいい?」
 食べ物の話になると輝流は子供のように生き生きとしてきた。
「そうだな、今の時期はあれが美味しいから……」
 どこのスーパーが安売りだとか、旬の食材は何だとか――そういった普通の会話ができるこの日常に祝福を。肩を並べて歩く二人は雑踏の中に消えて、後には忙しい都会の光景だけが残された。

●次世代〜futuro〜
 紅茶の良い香りが場を満たしている。
 カップをソーサーに戻して、凛は愛しげな瞳を美しく成長した娘に注いだ。会う度に綺麗になっていくとは感じていたが、久々の再会ともなると余計にそう思う。
 だが、ベリーの香り漂う紅茶に舌鼓を打っていたドロシーは自分の事よりも皆の方が重要らしかった。
「浅葱ちゃんお父さんも、凛ちゃんお母さんも、すっごく大人〜になった、ね……!」
 自分も昔に比べればずぅっと成長したつもり、ではある。
 だけどそれでも目の前にいる人たちの素敵さには叶わない。幾つ歳を重ねようとも、否、重ねれば重ねるほどその素敵さに磨きがかかっていくような気がした。
「やっぱりお父さんとお母さんの素敵さには、敵わないわ」
 心からの賛辞を鷹揚に受け止めながらも、浅葱には浅葱の言い分がある。
「大人になったというのなら、それは可憐さを美しさに変えたドロシーこそだ」
 歯の浮くようなセリフも浅葱の手にかかってはまるで挨拶のようにさらりと聞こえる。しかしてその心中は美しく育った娘に対する感激の嵐であったりもするのだが、少なくとも彼の横顔には澄ました笑みが浮かぶばかりだった。
 てらいのない褒め言葉にドロシーは誇らしげな笑顔をみせる。
 まさに蕾が花にといった風情の彼女をいま、万人誇りたくてたまらない――浅葱と凛はこっそりと目を合わせて笑み交わしあった。
「少しは俺達も落ち着きましたか。でもやはり、女の子が綺麗になるさまには敵わない。……綺麗にしてくれる人がいるからかもしれませんが」
 暗に誰かの事を指して、凛はドロシーに目配せを送る。それで伝わったのか、彼女は思い出したようにお願いした。
「あのね、ふたりとも。……今日は、手心を加えてあげて、ね」
「ふむ。我が愛しの娘に水をやっただろうあの男か」
 浅葱は柳眉をひそめ、どんな顔をして会ったものかと思案する。今この場に向かっている最中の男がくしゃみをする姿が幻視された。
「変わっていないのは僕くらいですかね」
 茫洋とした口調も雰囲気も十年前のまま、さっきまで存在感のなかったレテノールがようやく口を開いた。10年。長いような短いような時は結局、レテノールを変化させるに至らなかったらしい。
「外見も大きく変わった訳でもなし、誰か共に歩む人が出来た訳でもなし……」
 紅茶をすすりながら、蝶よ花よと人生を謳歌する三人をじっと見つめる。
 お母さん、お父さん、それに娘さん。三者三様の人生を送るかつての仲間はみな、輝いている。ふと寂しさを覚えてしまったレテノールを責められる人間がいるだろうか。
 小さなため息。
 彼にもティティはいるが、当然無口な覚醒フランケンシュタインBは喋り相手にはなってくれない。目の前で幸せを見せつけられてさぞかし落ち込んでいるのかと思いきや、皆と会えて単純に嬉しいという気持ちが優ってしまう辺りがレテノールだった。
「で、本日僕たちは立ちはだかる壁となるわけですね。彼の」
「そうですねえ。手加減はしませんが、心は込めますよ?」
 凛は当たり前のように言って二杯目の紅茶を注いだ。それにしても、『彼』は遅れている。浅葱もまた凛に同意するかのように頷いた。
「いくら可愛い娘の頼みでも、手加減だけは了承しかねる」
 感謝どころか親愛すら込めるのであれば、受けて立つ側も全力であらねば失礼というものだ。傍から見ればいったい何の話をしているのだろう、と首を傾げられそうな四人組である。
 だが、うららかな午後の光景が血塗られた決闘に様変わりするまで、そう長くの時間を必要とはしなかった。

(「在学中も含めれば10数年間この事から逃げ回っていたわけだが……」)
 ついに今日、智康は男になると決めた。
 いい加減覚悟を決めなければならない時が来ているとは思っていたのだ。そう、智康はこれから、ドロシーにプロポーズをする。
 決意を固め、結社に続くドアを押し開いた――。
「俺(達)を倒してから行けって、男の夢ですよね」
「ふっ、昔いびりすぎたことは悔やまんでもない……が、俺達を三人抜き程度できぬ男に娘はくれてやらんぞ」
「可愛い妹を娶るなら越えて下さいね、壁。あ、ティティも参加で。大丈夫ですよね、関谷強い子ですし」
 凛の綺麗としか言い様のない極上の笑顔と。
 高みからこちらを見下ろすような浅葱の眼差し。
 そして、ティティを従えたレテノールのとぼけた声色。
「――――」
 ごくり、と智康は喉を鳴らした。
 魔王。
 それが三人揃って、己の前に壁となってそびえたつ。
「娘が欲しくば我を倒していけってヤパーニッシュの伝統儀式なんですよね」
「そうなの?」
「こら、娘に妙な入れ知恵しない」
「知ってますよ、僕何年日本住んでると思ってるんですか」
 淡々と繰り広げられる家族漫才も、榊を握りしめる智康の耳には届かない。安全なところまで避難したドロシーは無邪気に手を振って「ふぁいとっ!」と応援の声を上げた。
「わ、ぁい! 浅葱お父さんも凛お母さんも、レテお兄ちゃんも頑張ってー!」
 浅葱は片手を挙げて声援に応え、動きやすいように襟元を緩める。金属性の擦過音と共にレッグギロチンが研がれた刃を露にした。隣で微笑む凛の髪のひと房がふわり、と宙を漂う――。
「っ……」
 これは武者震いだ。
 別に震えているわけではなく、そう、ついに最大の障壁である三人の魔王――ではなく先輩達に挑む時が訪れたというだけのこと。
(「待ってろドロシー、漢を見せつけてやるからな……!」)
 大きく息を吸って、吐いて。
 そして高らかに宣言してやった。
「悪いが先輩たち、ドロシーは貰ってくからな!」
 先手の祖霊降臨によって智康の魔力が底上げされる。しかし、榊のひと振りと引換えに眼前へ迫る、レッグギロチンの刃。高速旋回によって発生する原罪の嵐が周囲の空間ごと智康を切り取って絶望の底に叩きつける。
「耐えろ、愛があるならな」
 いっそ気持ちがよいほどの悪役笑顔を湛えて、浅葱は平然と全身全霊を込めた必殺の一撃を放った。
「ひぇ……――!!」
「ほら、ちゃんと目は開けててください?」
 娘をかっさらうつもりの、こちらも我が子同然の相手に対して凛が躊躇いのひとつも見せると思ったら間違いである。せっかくなので、という分かるような分からないような凛理論で現役時代にあまり使うことのなかったヒロイックフィーバーを開幕と同時に御披露。
 気の抜けるほど明るいファンファーレはご祝儀に相応しく、煙幕と同時に鼓膜が破れんばかりの花火を打ち上げた。
「いてててててててェ!!」
「レテ、次どうぞ」
「はい。ではクリティカルが出なければ多分大丈夫的な攻撃を」
 威嚇射撃を行うティティの背後から穢れの弾丸が迸る。原罪ストームとヒロイックフィーバーの洗礼から何とか這い出してきた智康に抜き差しならない一発を与えた。
「くっ、倒れて、たまるっかああああっ!!」
 魂が――ドロシーへの愛が智康の肉体を凌駕する。
 榊のひと振りから生み出された破魔矢をレッグギロチンで手折り、浅葱はいよいよ凄絶な笑みを唇に刷いた。
「さ、越えてみせろよ花婿(仮)」
「そうそう。これくらいで怯んじゃ駄目です智康。ラスボスはある意味……」
 凛の視線がはしゃぐドロシーを示す。
「えいっ」と智康にヤドリギの祝福をかけていた彼女は、ついに凌駕の途切れた智康の前にケルベロスオメガのミエリを伴って歩み寄ると、至上なる笑顔で告げた。
「最後はね、わたしを倒すのよ!」
「な……なん……だと……!?」
 絶望の淵に叩き落とされる気分というのはこういう時のそれを言うのだろう。ああ、ドロシー。その笑顔がまぶしすぎてもう、俺は……俺――……は……――………………。
「智康ちゃん? ねえ、冗談だってば。智康ちゃん……!!」
 十数分後。
 凛の持ち得る全ての回復を注ぎ込まれた智康はぴかぴかの無傷で目を覚ましたという。ゴースト再生手術を使わずに済んで何よりですとのたまったレテノールはやはり、例の何を考えているのかわからない顔をしていた。

 そして、壁を乗り越えた智康はドロシーと共に式の当日を迎える。
「誰かの結婚式で幸いを祈るなんて、銀誓館に来たばかりの時は考えもしませんでした。……綺麗です、ドロシー」
 感情に疎い自分にもこんな気分を抱く日が来たのだと何やら奇妙なところで感慨深い。
 意外なことに、ドロシーは日本の結婚式に則り白無垢を纏っていた。お色直しで着るドレスは花いっぱいの宝物。レテノールはしみじみと語る。
「更に素敵になった貴女を大事に出来る関谷が羨ましい位です」
「ああ、こんなキレーな嫁さん貰えるなんて、俺、幸せだよな」
 レテノールの当てこすりすら通じないほどに智康はいま、感動していた。和装は智康の希望だったが、ドロシーが着物に袖を通すと本当に、異国からきた花嫁といった風情でただ美しいだけではない不思議な魅力がある。
 楚々たる白無垢と金の髪にふとした懐かしさを覚えた浅葱は、気づかぬうちにほう、と感嘆の吐息をもらしていた。いつか見た姿に似ている――あの時も今も満ちる思いは唯温かで、胸が張り裂けんばかりに愛しかった。
「関谷は果報者よな、うむ」
 黒の羽織りと袴を身につけた智康は身内贔屓と言われようとも、十分に良い男である。褒められ慣れていない智康は居心地悪げに身じろぎをした。
「何だ、今日はやけにみんなやさしいような……」
「槍でも降っちゃいますか? でも、試練を乗り越えた花婿(当確)ならおちゃのこさいさいでしょうから。はい」
 それにしても、白無垢の凛とした美しさたるや言葉もない。
「おめでとう、ドロシー。末永くお幸せに」
「ん。わたし、ドロシーは、幸せになるよ」
 にっこりと花が咲くようにドロシーは微笑んだ。
「結婚する前に未亡人、ならなくてよかったしね」
「ああ……」
 智康はどこか遠い目をしている。
 だが、ドロシーが本当に喜悦満面になるのは披露宴が始まった時の事だった。
「これは、これは全部食べても、良いのっ?」
 運び込まれたのは高さ三mはあろうかという、巨大タワーウェディングケーキ。普通に考えれば一人で一日中に食べる事など無理に決まっているのだが、ドロシーはお構いなしに叫んで智康に抱きついた。
「一番てっぺんには蜘蛛童の砂糖菓子が鎮座してんだぜ、下からじゃ見えないけど。で、中には結婚指輪が入ってる」
 そう、今ドロシーの指を飾っているのはまだ、先日渡した婚約指輪だった。命がけで発掘してきた石を磨いてはめ込んだ世界の一つの指輪だ。
 食べ進めて発見しないと指輪交換できないというスリリング過ぎる余興に、浅葱は呆れを通り越して笑い、凛はどうやったら効率よく食べられるかを思案し始めた。
「まったく、斜め上に突っ走るのは変わってませんね。頂きますけど。あ、最終兵器ティティも控えておりますので」
 いつか、この光景も遠くなるのだろう。
 五人でケーキを取り囲みながら、レテノールはいまこの時を刻み込むように、まぶたを閉じた。
「では、俺はこっちから頂きましょう」
 願わくば、親愛なる若き二人の道行に幸あれ。
 既に幸せのただ中にいる凛は最初の入刀を新郎新婦に譲ってからフォークを取り上げた。
「取り分けてあげましょうか、浅葱」
「ああ。頼もうか」
 それ、とばかりに特大大盛りのケーキを手渡された浅葱はしばしの間無言でいた後、おもむろにフォークを刺して黙々とそれを片付け始めた。
「おいし、おいし……!」
「新郎に『あーん』とか、してあげないんですかドロシー?」
「そんな暇ないの、おいしいの!」
 智康そっちのけでケーキを頬張るドロシーは指輪の事など忘れてしまったかのように、ただただ笑顔で食べ続けた。智康など、彼女の幸せそうな笑顔だけで腹がいっぱいになってしまった程だ。
 これから長い長い間、二人を繋ぐ銀の環は待っている。
 誰に見つけられるのか、むしろ果たして見つけてもらえるのかどうか――その後の物語は彼らだけが知っていた。

 2023年――

●それぞれの〜happy〜
「ふう、今日はこのくらいにしておこうかしら」
 新たな命を宿したお腹をさすりながら、紫はキリのいいところで原稿を切り上げた。プロポーズから結婚、懐妊まで瞬く間に時は過ぎ去ってしまった。これからは平穏な日々を……と望んだところで、漫画家としての生活は多忙を極める。
「まさか、能力者としての日常を自分の実体験も踏まえてドタバタコメディに仕上げたのがこんなに受けるなんて。皆、能力者に目覚めた後で興味があるのかしら」
 世界結界も崩壊して、いっそ能力者をネタにした漫画とかどうですか――葛馬の読みが当たり、紫の漫画は順調に増刷を重ねている。
 昼も夜も分からないような生活だが、それでもゴーストと戦っていた時期から比べればよほど生ぬるい。逆に言えばあの時代があったからこそ弱音を吐かずに頑張れるのだと思えば、若い頃の苦労は買ってでもしておくものだ。
「お茶でも淹れましょうか」
「ありがと。きっと、どんなに世の中変わっても変わらない日常があると皆信じて行きたいのね」
 自分の書く漫画が道標になればいいだなんて、そんなおこがましい事は考えていない。漫画とは娯楽である。忙しく危険な生活と隣り合わせにひと時の安らぎとなるような、そんな漫画を書き続けていきたい。それは紫の選んだ道であり、葛馬と共に歩む道でもあった。

●日常〜酒盛り〜
「うーん、どんなんがええかな」
 ある日のこと、久遠は一枚の紙を前にしてうんうんと唸っていた。昔に椿庭の皆と語り合った夢が、もう少しで手の届くところまで来ている。
 責任は重いけれど、その分やりがいも大きい。
(「アイツなら、そうや。こういう時ほど不敵に笑うに違いないわ」)
 友人の顔を思い浮かべた時、ちょうど時計の針が重なって約束の刻の訪れを知らせた。
「……あ、もうじき家出んと間に合わない」
 久遠は慌てて腰を上げて、待ち合わせの場所――椿の庭に向かう。久々に帰ってきた悪友を出迎えたのは世界結界消滅の日に再覚醒して再び能力者となった雪だった。
 生計は株方面でひと稼ぎしつつ、情報収集と数年で培った人脈に繋ぎをつけて取材を取り持ったりなど、忙しいようでやりがいのある暮らしぶりである。
「よっ、久しぶりや。今日はちょっと店のロゴマークどないするか相談に乗って欲しいんやけど」
「ロゴマーク?」
「せや。それに、昔誕生日に貰った釿の桔梗紋、見事に磨り減ってもうないぞ」
 つまりは、それだけ愛用していたという証でもあった。
 雪は笑って、彼の前に盃を置く。
「お前も見ない間に随分と一人前になったようじゃないか、なあ」
 自室改築で顧客一号なりの歓迎をしながら、かつての悪友同士杯を飲み交わす。積もる話は尽きず、久遠は酔っ払って寝入ってしまうまで惚気を続けた。

 2024年――

●4月19日〜ヒューの誕生日〜
「……なぁ、昔から何となくオッサンオッサン呼んでるけどよ……。何でオッサン老けてねぇんだ」
「はァ、ちょい羨ましいっつぅかなんつぅかーァ」
 ひそひそと顔を寄せ合い、直人と春一が相談しているのは本日の主賓三十四歳になるヒューの見た目についてである。前回も前々回も思ったのだが、ことここに至ってやはりおかしいという結論に達した。
「私も34歳とは……歳が過ぎるのは早いねえ……」
 当の本人だけが、素知らぬ顔でグラスを傾けている。
 にこりと意味深げに微笑んで、それはきっと――と語り始めた。
「老けて見えないのだとすれば、毎日が充実しているからだと思うのだよ」
 だが、直人と春一は肩を寄せたまま首を横に振った。
「俺だって結構それなりに充実してっと思うけど、普通に年相応に見られるぜ」
「俺ンもそうですわーァ。なにコレ変な術でも使いやがってンじゃないの?」
 むにむにとヒューの頬をつまんでひっぱるが、ヒューは余裕ぶって「辞め給えよ」と微笑むばかりだ。
「ハリュ、ほおお引っ張っても皺はでなひ故……」
 だがしかし、頬をつままれたままでは滑舌が悪い。
 まったく、と解放されたヒューは赤くなった頬をさすりつつハルの頭を撫でた。見た目が多少変わろうと変わるまいと、二人が可愛い家族だということは自明の理である。
「ナオも、変わらないではないね?」
「や、止めろよ、もういい歳なんだからよ……!」
 続けて自分の頭にもやってきたヒューの手に照れながら、直人は形ばかり抵抗してみせる。本気で嫌がっていないのは、笑っている顔を見れば明らかだ。
「つぅか、子供扱いはナシよ? ねーェ、瀬崎チャン」
 こくりと頷く直人と一緒になって一通りぶーたれた後で、「でもまぁ」と春一は頭をかきながらヒューの誕生日を祝った。
「これからも頼りにしてやがりますわよーォ、オッサン!」
「うんうん、是非ともそうしてくれ給えよ」
 家族に誕生日を祝ってもらえる幸せ、三連チャン。今日もまた、三人と一匹の夜は過ぎてゆく、出番が少なくて拗ね気味のクロスケは、「カァン」と鳴いて部屋の中を飛び回った。

●日常〜旧校舎前にて〜
 西の空が赤く染まる。廃れた校舎によく映える、極上の黄昏だった。着慣れた焦げ茶色のコートを羽織った男――ウィルは校舎に寄りかかって人待ち顔をしている。
「お、よーやく来た」
 まだ豆粒ほどの大きさでしかないというのに、歩み寄る黒い人影が相棒のものだと確信したウィルは呑気な声で「おーい」と手を振った。
 あちらも気づいたのか、片手をあげて足を早める。
「悪い悪い。予定外の会議が入った上に長引いちまってさ」
 玲紋は仕事帰りらしく、濃灰色のスーツ姿だ。ネクタイを緩める指先は完全に大人の男のもので、過ぎ去った年月の重みをいやおうなく感じさせた。既に習慣化して当然の挨拶状態となっているハイタッチを交わしてから、ふたりは並んで旧校舎の中へと入って行く。
「その後どーよ、犬は元気にしてんのか」
「ま、な。忙しくて最近構ってやれないんでどうも拗ね気味だが。お前の方こそ、調子はどうよ?」
「もう毎日動物まみれ」
 ウィルは眉を下げて、おどけるように笑った。
 獣医になってからというもの、毎日が戦場だ。もちろんそれ以前から『本当の』戦場を知っているウィルだから、誇張ではないと断言できる。玲紋はお得意様で、予防注射やら定期検診やらで頻繁に愛犬を世話してもらっているのだ。
 だから、結構年がら年中顔を合わせていたりする。
 当然、玲紋の仕事が何やら堅苦しい分野で毎日遅くまで書類と向き合っていることも了解済みなわけだ。
「何だっけ、何とか監査員? 難しそーな仕事だっけ」
 ウィルは人差し指をこめかみに当てて記憶を探る。
「ええー、ああええと。つまり大人の世界の風紀委員だよな」
 即座に、ピシっとした眼鏡とそれっぽい腕章をつけて校内の見回りをする風紀委員バージョンの玲紋が脳内製成された。
「ぜんぜん違うっつーの」
「うっさい細けえことはいーじゃねえの、久し振りなんだしよ」
 おら、とからかうように拳を突き出せば、玲紋も肩を竦めてそれに応えた。訂正をしなかったのは問題の些細さ云々よりも純粋に面倒くさかっただけだ。この男、こう見えてどうしてものぐさ太郎である。
 それに、と背を預けた校舎を振り仰いだ。
「ここに来ると小さなことはどうでもよくなるな」
「ああ、この時間にこの校舎、懐かしーなぁ」
 よっ、と掛け声をかけて、ウィルは窓枠に腰かけた。隣に背を預けた玲紋は差し込む夕陽の眩さに目をすがめる。廊下を、教室を照らすのは沈む間際の真っ赤な太陽。
 ぎしぎしと軋む床も、磨り減った黒板もこの光の中では美しく映える。瞼越しにいつかの賑やかさが聞こえる気がして、ウィルは耳を澄ませるように記憶の彼方へと意識を飛ばした。
 学園祭。
 入賞した時のインタビューはテンパッていたせいで妙な敬語になってしまった。
 荒野に誘われ、仲間と共に戦ったガンマンの散りざま。
 頭から黒狼の皮を被った大男の最期。
 他にも色々な事があった。
 ここにはいつも無言で待っていてくれるこの旧校舎があって、仲間がいて、日毎美しい夕焼けに彩られた思い出が棲んでいる。
「よく此処でバカやったよなぁ。玲紋がよく鴨居に頭ぶつけたりしただろ」
「は? ぶつけてねーよ。誰と間違えてんだよそれ?」
「違ったっけ? ……そうだ、あいつだ」
 ウィルは指折り数えて、ひとりひとり細かなエピソードを思い出していった。耳を傾ける玲紋の横顔にも懐かしさが滲んで、「そんなこともあったよな」と緩やかに頷いている。
「今頃どーしてんだろなぁ」
「ぼちぼちやってるんじゃないか。俺らみたいに」
 玲紋が言うと、ウィルは顎に手を当てて「なるほど」と呟いた。
「放課後になるとここに集まってさ。そういやよく行ったプール地下、改築されてたりしてねえかな」
「どうだかな。案外昔のままだったりして?」
 違いない、と喉を鳴らすように笑って、暮れゆく空を眺める。近いようで遠い時代だ。あの頃は本当に子供だった。それが今では、ウィルも悪ガキ大将に振り回される毎日である。
「なんつーか……俺らも歳とるわけだよな……ご家族元気?」
「おうよ、今年で五歳だぜ。今度犬見せてやってくれよ」
「見せるだけで済めばいいがな……」
 何しろこのウィルの血を引く息子だ。
 愛犬に大変な事をされたらたまらないと、玲紋は思案顔になる。
「まあ、大丈夫だろ。適当に遊んでやってくれ」
「サンキュ。つか、お前の方はどうなわけ? 引く手あまただったろーに世の中どうなってんだか」
「ノーコメント」
 はぐらかされたウィルはつまらなさげな顔で「ふうん」と呟いて話題を打ち切った。この相棒がこういうとぼけ顔になったらてこでも気を変えない。
「お前らしいっちゃらしいけどさ。うん、似合ってる」
「そりゃどうも」
 すっかりただの日常に戻った身の上を改めて実感しつつ、先に背を離したのは玲紋の方だった。
「そろそろ飲み行くかー?」
「ドコ飲み行くよ、お勧めあるんだろ」
「おすすめねぇ……あー確かちょっと面白いとこあったな。そこにするか」
 今の時間なら待つこともないだろうと、すっかり薄暗くなった校庭を見渡した。夜にはまだ早い、黄昏の去り際に旧校舎はひそやかな影を産み落としている。
 玲紋の後から外に出たウィルは、立て付けの悪くなった扉をゆっくりと閉めた。向こうに残る思い出をしっかりと焼き直して、またいつか来る日まで抱き続ける。
(「叶えた夢も、ささやかに残る夢も連れて、この先に行こうじゃねーの」)
 懐かしい非日常の空間から戻る教室の扉を開いて、元の世界に戻ってゆく架け橋の場所。そこは落ちる陽のそのまた向こうに見える場所――非日常と日常が入り混じる現実へと、二人は肩を並べて歩き出した。

●この場所で〜prayer〜
「じゃ、いってこい」
 下の子も小学校に上がり、最近はふたり揃って朝早くに登校する。まだ店を開けるより前の時間で、燵吉は朝の仕込みをしながら見送るのが日課となっていた。
 近所の子供と班を作って登校する光流と倖春を見ていると、今までに流れた時間の分だけ、たまに胸が苦しくなる。
 ――知ってる。
 燵吉は眉をひそめた。
 これは間違いなく、幸せ病の症状だ。
「燵吉さん?」
 なかなか戻ってこない燵吉を心配した水咲が、わざわざ外まで迎えにきてくれた。
 隣に並び、そっと腕に触れる指先。
 この幸せを噛み締められるのはきっと、水咲が居てくれるからなのだと。微かに伝わる温もりを限りなく愛しいと感じながら、燵吉は彼女の肩を抱き寄せた。
 だが、すぐにここが表であることを思い出して、照れ隠しのように咳払いひとつ。くすくすと笑みをこぼす水咲と一緒に店の中に戻ると、煮込まれたスープの匂いが出番はまだかと主張する。
「……水咲」
 愛してる。
 たったそれだけの言葉の代わりに、上向けた水咲の唇へ送るキス。
 祈りは伝染する。
 まるで最初からふたりでひとつだったかのように、幸せは共にある。
「大事なんだよ。お前も、あいつ等も」
 頷く水咲の瞳はそれから、まっすぐに燵吉を見上げた。
 胸に置いた手のひら越しに変わらない温もりと鼓動が伝わる。キスも、あの頃とまるで変わらない。だから水咲は一度たりとも迷ったことはなかった。
「ねぇ、やっぱり此処が、私の祈りの届く場所なのだと思うわ」
 準備を終えて看板をひっくり返せば、今日もまた新しい一日が幕を開ける。
 燵吉と子供たちのいるこの場所が、この空間が水咲にとってはかけがえのない宝物。そっと箱の底にしまっておくようなそれではなく、毎日おひさまの下で笑って、一緒に生きて生きて、育てていくような――。
「水咲、そっち頼めるか」
「任せてちょうだい」
 祈りはこれからも、永久に。
 幸せはここに在る。
 
●花祈譚〜七年後〜
「えっと、確かこの角を右に曲がって……」
 夫と娘息子、そして書道教室の教え子達を連れた結梨はきょろきょろと辺りを見回した。目的地は言わずもがな。七年前に仲間と行ったあのお店に、今度はこの子たちを連れて行きたい。
 一念発起した結梨は事前に子供達の保護者に許可を取って、ある月の休日に作戦を決行した。ちなみに、店側に連絡はしていない。
 驚かせたいという気持ちがなかったとは言わない。
 それに、きっと笑って迎えてくれるという自信があった。
 期待と不安にそわそわしている子供達に微笑みかけて、結梨はどこか遠い目をしながらお店のことを話し始める。
「あの店のお姉さんが作るお菓子は凄く美味しいんだよ。ラテアートも上手だからリクエストして何か描いてもらおうか」
「ラテアート?」
「そう。カフェラテの泡に楊枝やチョコレートソースで絵を描くの」
 子供たちの間から「わっ」と歓声があがる。
 結梨は「しっ」と唇の前に人差し指をたてて、事前に言い聞かせておいた。けれど実は誰よりも自分自身がわくわくしている。
「あ、ほら看板が見えてきた」
 開店時間まであと少し。
 懐かしい看板に心が踊り始めた。準備をするためか、可愛らしい前掛けをした女性が店の中から出てくるのが見える。
「未都ちゃん」
 振り返る顔に驚きが広がる頃、結梨は笑顔を浮かべて彼女の元へと駆け寄っていた。

●十二月上旬〜日和子〜
 札幌中心部にほど近い、円形の歩道橋にて。
 途中で買ってきた花を抱えた日和子は、無言のままそこに佇んでいた。月日が経つのは本当に早く、思い出に浸ることを許してはくれない。
 だから、人はこうして時折亡き人を偲ぶための機会をあらかじめ設けておくのかもしれなかった。
「十三回忌ですね……」
 眠る人はまだ、学園を見守っているのだろうか。
 此岸に生きる日和子には知るすべはない。物思いに耽っていると、遠くから、歩道橋の下から呼ばれる声がした。立ち上がりそちらに視線を向けると、白い服を着た子供達が日和子を呼んでいる。
 結社のような、組織のような。
 自警団、と呼ぶのが一番ふさわしいのかもしれない。
 日和子はそこで子供たちの指導役についている。出身が出身だから、仕方ない面も大きい。表立ってはセラピストとして働く毎日だ。
 既に世界結界はなく、この力をもてあます人々も決して少なくはないだろう。
「いい事ばかりもたらさないから、この力は――」
 だから、少しでも次の世代が担う負担をなくせたら、ひとつでもいい事の方を増やせたらいいな、と思う。本当にささやかな願いではあるけれど。
 
●世界会議〜日常〜
 今、メイベルとリーゼロッテは違う席から同じ会議に出席している。それは欧州の政治経済に関わる能力者たちが集まり、今後の世界の行く末について議論をする場だ。
 メイベルは英国の、リーゼロッテはドイツ連邦議会の議員として名を連ねている。
 ついにここまできたか――。
 感慨深くも、満足に浸りきっている暇もない。会議後、二人で久しぶりの食事をとったメイベルとリーゼロッテは互いの活躍を祝して乾杯を上げた。
「リゼは前よりも綺麗になった」
 そもそも、初めて見た時から見とれていたのだ。改めてそんな告白めいたことを言い始めるメイベルに、リーゼロッテは首を傾げて答える。
「それを言ったら、わたくしも凛々しい貴方の姿にずっと惹かれていました。……いえ、おかしな意味ではなくてですねっ」
「無論、我もだ」
 二人して慌てるのが少しおかしい。
 メイベルはワインを傾けつつ、小さな笑みを唇に乗せた。
「今更だが、リゼと逢えて本当によかった」
「ええ。貴方と出逢えて、良かったですわ」
 顔を見合わせて、どちらからともなく吹き出してしまう。
「なんだかさきほどから、同じような事を言い合ってばかりですわね」
「む。リゼが真似するのだから仕方あるまい」
 にや、と強気な笑顔でメイベルが上手を取った。反論を封じるようにリーゼロッテのグラスにワインを継ぎ足して、続ける。
「ならば、次に我が言おうとしている事も承知済みであろうな?」
 挑戦を、リーゼロッテは微笑みと共に受け取った。
「もちろんですわ。これからもずうっと、わたくしの親友でいて下さいましね」
 ああ、とメイベルは確かに頷いた。
「我らはずっと、大切な親友だよ――」

●新たな〜Baby〜
「うわあ、日本の風だー」
 これから生まれる新しい命のために帰ってきたのは、やっぱり日本。どちらの祖国でもないけれど、トランプにウノ、すごろくにカタン、ドミニオンはもちろんギャルゲーからホラゲーまでなんでもある楽しい家だ。
 飛行機から降りた途端、懐かしさに襲われてレンは両腕を広げて駆け出したくなった。
 十六夜はと言えば、さっそく取った部屋に引きこもって旅先で見つけたテレビゲームやボードゲームに囲まれている。
「腕を上げてきたわね……そっちがそうなら、これでどう?」
 臨月のお腹をさすりながら、容赦のない攻めの一手。
 七年の歳月は彼女を立派なゲームオタクに育て上げてしまった。今ではレンの方が苦戦を強いられることもある。幸い、今やっている陣取りゲームはレンに一日の長がある。素早く目を走らせて、一分の隙を見つけたレンは指先でつまんだ駒を動かした。
「よし、ここは頂きっ♪」
 と、宣言した時のこと――。
 十六夜の美しい眉が僅かに細められた。
「お、苦戦してる?」
「ちがう……」
 突如腹を襲った鈍い痛みは徐々に波打つ激痛へと変わっていった。
 陣痛である。
「……ちょっと、レン、タクシー呼んで。生まれるわ……っ」
「えっえっえっ!? ちょちょちょちょっとまって、受話器どこ、もしもし産婆サーン! いやいや蕎麦じゃなくて!!」
 慌てるを通り越して蒼白になりつつ、レンは呼び出したタクシーに乗って十六夜と共に病院へ駆け込んだ。最後の最後まで忙しいというか行き当たりばったりな二人である。
 夜が明ける頃、甲高い産声がレンの耳に届いた。
 母子ともに健康で、玉のような赤ちゃんであったと聞く。
 
●同窓会〜Overture〜
 2012年のクリスマスからちょうど十二年目に開催された同窓会。会場のボードには『銀誓館様御一行』と黒いマジックで案内が出ている。
 開催時刻より早めにやって来たイェルはきょろきょろと辺りを見渡して、目的の背中を見つけるなり遠慮の欠片もなくぶつかっていった。
「うわっ」
 標的にされた弥鶴が驚いて振り返る。
 イェルはじろじろと相手の眺め渡して、物騒な事を言い始めた。
「あっれ〜、先輩まだ生きてたんだ。女の子にテキトーやらかして刺されたりとかしてないの? 刺された跡とか無いの〜」
 シャツの上から触って確かめる手つきは明らかに乱暴である。
 しばしの間されるがままになっていた弥鶴は、ふと真顔で問いかけた。
「あのさ、前から思ってたんだけど。俺ってそんなに刺されそうなことしてるように見える?」
「はぁ? 私ん中じゃ先輩って女子を勘違いさせそうな無駄に軽い優しさをホイホイやってるイメージ。違うの?」
 イェルは逆に問い返した。
 すると、弥鶴は腑に落ちないといった顔で続ける。
「勘違い?」
「そ。その気もないのに優しくされたら女の子の方だってメーワクじゃない?」
「その気はあるんだけどな」
「あのテキトーが? 誰にでも笑顔をふりまくアレが?」
 だとしたら余計タチが悪い。
(「それ、誰でもいいってことじゃね?」)
 訂正しよう。
 この男、むしろ刺されるべきである。
「先輩、よくそれで世の中渡ってこれたね。何でトラブルになんないの? 刺されないの?」
「何でって……あ、一個だけトラブルがあったような」
 弥鶴が思い出したように呟いた時、開場を告げるアナウンスがあった。滑り込みで走ってきたのは金髪のツンツン頭、圭吾である。
「間に合ったー!」
「だから、もっと早く家を出ようって言ったのに……」
 騒いですみません、と周りに頭を下げているのは人魚だ。言っている端から知り合いを見つけては騒々しい挨拶を繰り返す圭吾にふつふつと静かな殺意が湧いてくる。
「いやぁ、……というような紆余曲折を経て、土下座して結婚して貰いました。死ぬ気で――いや実際死にかけた気がするんですが――成せば成るってこういう事を言うんでしょうかねぇ。あ、仰木さん、甲斐原さんも! お久しぶりです」
 久しぶり、と笑顔で返す弥鶴の後ろで、むつきは恥ずかしげにこちらの様子を窺っている。
「元気だった、むつきちゃん?」
「あ、はい……うん……」
 一体どんな口調で話すのが相応しいのだろうか。
 むつきは躊躇いながらも、聞かねばならないと決心して唇を開いた。
「その、鴛海さんはもう、鴛海さんじゃないのかしら」
「……土下座とか、聞かなかったことにしてくれる?」
「え?」
 帰ったらお仕置きだわ、と人魚が心に秘めた決意を圭吾はまだ知らない。踏んだことまでは言ってないみたいだから、いいのかしら……と考えていた時、弥鶴が悪気なく言った。
「鴛海、じゃなくて何て呼べばいいのかな。花時丸の奥さん? プロポーズの時に決闘したんだって?」
 途端、人魚の微笑みが凍りついた。
「それ、誰に聞いたんですか」
「え? 花時丸」
 無論、彼以外にいるはずがない。
「圭吾、後で覚えておいて」
「へ? な、なに? 俺またなんかやらかしたの!?」
 ひえぇ、と悲鳴を上げた圭吾は、視界の端にどこかで見た白を見出して目を見開いた。しかも隣には綺麗な女性を伴っている。見間違えようがない。あれは――。
「……まさか日月さん?」
 恐る恐る手を振ると、青年は女性にくっついている子供に何やら囁き、頷いた子供がきょとんとした顔で手を振り返してくれた。
「知り合い?」
「うん。圭吾……あの黄色っぽい人」
「ああ、なるほど」
 知らない人々に囲まれても、二人の子は物怖じする気配もない。自分に似ず外を走り回る活発な子に育ってくれたのはきっと舞夜の血のおかげだろう。
「三つにもなると顔つきもくっきりとして……そーくん似の凛々しい子でしょう?」
 と、舞夜が我が子自慢をすれば圭吾も負けじと受けて立つ。
「うおっ、確かにかわいい……!! でもでも、うちの娘だって負けてないスよ。写真見ます? ほらどうですかいやもーマジで可愛いんスよ」
 返事など最初から必要としていないらしく、一体何枚あるのかといった勢いで次々と写真を繰り出す親馬鹿の図である。
「こないだも、『今お父さんが抱きつくの我慢したら、さ来年のバレンタインにチョコあげる』って言ってくれて……! ……なんで距離取るんだ、人魚」
「いえ、別に」
 気づけば遠巻きにこちらをそれも底冷えした眼差しで見ている妻に首を傾げる圭吾だったが、人魚はもはや諦めてしまったらしく微笑みすら見せた。
「しあわせ、ですよ。とても。……多分、彼よりもわたしの方が。……あんなのですけど」
 そろそろ小学校にあがる娘はその分、しっかり育ってくれている。犬を飼いたいらしいが、「うちにはすでにお父さんがいるし」と言ったら「そっか」と肩を落としながら納得してくれた。
「――ちょっと待て人魚! 俺そんな話聞いてない」
「言ってないもの」
 人魚はしれっとした顔で言い切った。
「程々にね、圭吾。……またお父さん構うのめんどくさいとか、言われちゃうわよ」
「えっまたって何? いつもそんなこと言われてんの!?」
 事実は時として残酷なものである。
 崩れ落ちる圭吾も見慣れたもので、弥鶴は特に励ますこともなく人魚に意見を求めた。
「相変わらずなんだ?」
 はい、と人魚は少し恥じるように頷いてみせる。
 何だかんだで、楽しいのだ。人魚は自分の感情を肯定しつつ、今度は弥鶴に水を向けた。
「私達の方はまあ、そんな感じです。仰木先輩はいいひと、見つかりましたか?」
「それなんだけどさ、誰かいい人いないかな」
 真顔で尋ねる弥鶴に、穹が首を傾げた。
「婚活、成就してないの?」
「したというかしてないというか……」
 小さい声で、「振られちゃった」と白状した。
「いま中学校で働いてるんだけどさ、子育てしながら仕事するのほんとつらい」
「ちょ、子供!?」
 驚愕する圭吾の隣で、イェルが意外そうな声を上げた。
「なに、ヒモじゃないの?」
「だからさ、イェルは俺のこと何だと思ってるわけ?」
 弥鶴の純粋な疑問に対して、イェルは悪びれずに答えた。
「仕事の愚痴言う情けない男とか? こっちは男社会で頑張ってんのに、あ、ちなみに服飾。デザインの方ね。キッツイ言いながらやってるウチに30よ。まーでも女がよくなるのは30からって言うし、惚れんなよ」
 冗談混じりに釘を刺したにも関わらず、弥鶴は相変わらずの笑顔で「へえ」と相槌を打ってから「いいな、惚れちゃう」と羨ましげに言った。
「何か、すげぇ話してんね」
 穹と挨拶を交わした航汰は、異次元のような空間を横目で見やりつつ感想を述べた。隣では一緒に会場まで来た漣が苦笑している。
「俺も渦の嫁探しを考えてんだが……言い出せねぇ」
「大丈夫。渦も、いつか素敵な猫の子に出会えるよ」
 ぴったりと航汰に寄り添う渦は、穹に言ってもらえたのが嬉しいらしくぴこぴこと耳を動かしている。案外、この世界は素晴らしくて明るいものだ。
「ね、舞夜……」
 隣にいるはずの舞夜は、けれど料理を取りに行ってしまったらしく不在だった。
「日月さん、ドンマイ! 俺も家じゃそんな感じだけど幸せッスから……! ショックだけどそこも可愛いんスよー。あ、宍戸さんもおめでとうございます!」
「あー……、ドウモ」
 歯切れ悪く、けれど面映げに応える航汰の隣にけれど肝心の本人がいない。
「ああ、渦さんは二人を心配しているのかもと思っていたんですが。余計なお世話でしたか。おめでとうございます」
 と、改めて祝辞を述べた漣も「あれ?」と首を傾げた。
「花邑さんはどこに……」
 会場内を見渡すと、特徴的なふわふわの髪の毛がしゅたーっと駆け出していくのが見える。そのままこちらに背を向けている女性にぶつかっていった。
「むむむつきさ……!」
「きゃっ」
 驚いて振り返るむつきは、ニルに気づいてその手をきつく握り締めた。
「花邑さん……!!」
「むつきさんむつきさん、わ、私伝えたい事が……好きですー!!」
 その瞬間、むつきは顔に火が点いたように真っ赤になって、物言いたげに口を開いたり閉じたりしつつ俯いた。ちょうどそれを見ていたのが、きっちりと髪を整えて社会人然とした渉である。彼はつかつかと二人に歩み寄って、「あの」と勢いに流されるまま口を開いた。
「僕も好きです。あっ……」
 言ってしまってから初めて自覚したように、渉は口元を抑えて赤面する。
「ああ、すみません。自己紹介が遅れました深水です。仕事に熱中したせいか会社での挙措が地になってしまいまして……」
 整えた髪型を崩すと、学生時代の名残りであるあどけなさが顔を出した。
 むつきは二人の顔を交互に見渡して、感極まったように言葉を紡ぐ。
「あの、私もずっと卒業式のお礼を言いたくて……ありがとう。その、私も……好き……」
「むつきさんー!! はっ、それと私のことは宍戸さんって呼んでくれてもいいのよ!」
 紅葉に染まる温泉や初夏に花咲く蓮の元で綴ったあの思い出。続きをもっと重ねたい、紡いでいきたいと心の底から願っている。
 ぎゅっと遠慮なく抱きしめ合える二人の後ろで立ち尽くしていた渉の前に、むつきは遠慮がちに向き直る。しばしの間躊躇ってから、その右手を両手で握り締めた。

「こんにちはー、皆お久しぶりデス♪」
 あの頃と変わらない雰囲気に安心感を覚えて、業は緊張を解きながら話の輪に加わった。記憶に合致する人も誰だかわからない人もそれぞれ居るが、いずれも壮健そうでなによりだと思う。
「弥鶴センパイもむつきセンパイも相変わらずですねー」
 娘を連れて挨拶周りをしていた小春は頷いて、業や雷人とも言葉を交わしあった。同じく結婚して子供もいる雷人とは特に話が合ったらしい。
「そう言えば、仰木先輩は専業主夫の夢は叶ってるのかなー?」
「あ、それ聞いちゃだめみたいですよ」
 しっと小春は唇に人差し指を立てた。
 なかなかうまくいかないものですね、と業は首をひねって腕を組む。
「……何であれ、無事に生きて来れた事に心からの感謝を」
 そして、この先の未来に祝福を。
 とは言いつつも、現実は容赦なく襲ってくるわけであってなかなかにせち辛い。
「俺は国内のメーカーに就職して、イグカに出し入れ自由なバイクを作っています。……納期に追われると……心がささくれるケドネ……?」
「うわあ、大変だね」
 雷人はしみじみと相槌をうった。
 久しぶり過ぎて何から話していいのか分からないが、それでも、せっかくだから思い切り楽しみたいと思う。そういえば、とむつきを探して聞いてみた。
「甲斐原先輩も能力者になってるの?」
 むつきはこくりと頷いて肯定したが、何に覚醒したのかは「秘密」と言って教えてくれなかった。
「自分は気侭な放浪暮らしですね。旅先で撮った写真の展示や、旅行記書いたりとか」
 漣の近況報告は端的に整っていて、普段から読みやすい文章を書いているのだろうと思わせた。初耳だったらしく、ニルは身を乗り出して旅館のアピールを繰り出す。
「い、いま聞き捨てならぬ単語が……! 旅行記ですって!? 旅からお帰りの際は是非立ち寄って下さいね。漣さんなら365日いつでも大歓迎ですよぅ」
 人数分のグラスをトレーに乗せて持ってきたニルは仲居修行で身につけた所作で、甲斐甲斐しく飲み物を配りまわった。それを受け取りながら、航汰は呆れ顔で肩を竦める。
「ニルお前何勝手に。だが、それはそれとして放浪は格好良い響き」
 茶で舌を湿らせてから、漣を呼んで「ウチに寄る時はまず俺に連絡しろよ」と念を押した。
「最上客室の渦の間を手配しておく」
「渦の間? 期待感があおられますね」
 彼が最も愛する猫の名を与えられた部屋。想像するだに素敵な間だということが分かる。漣はにっこりと微笑んで、居合わせた穹に声をかけた。
「お久しぶりです、日月先輩」
「ああ、久しぶり」
 交わす言葉は短くとも、変わらぬ笑顔がすべてを物語る。
 ああ、あの学園での思い出に支えられて今の自分が在るのだと、繋いだ縁が切れずこの先も続くことを切に願う。
「何だか、懐かしいというよりわくわくしますね。皆さんがこれからどんな道を歩まれるのか、とても興味があります」
 漣は淡やかな高揚感に身を任せ、呟いた。
 イェルが頷き返す。
「そりゃね、もたもたしてる暇も時間もないしさ。時々有給とって能力者訓練施設で若いコゾーども理不尽にシゴキに行くんだけど、超楽しいよ。先輩も今度一緒にいこーよ?」
「やっぱりイェルっていじめっ子だと思う」
 確信したように弥鶴は頷き、「どうしようかな」と思案顔になった。だが、イェルは逃がすまじ、と弥鶴の腕に手を回して捕まえる。
「というかね、昔に奢れって言った分回収しないと、12年分利子つけて。同窓会の後、私とデートしようよ。つか奢れよ」
「それはいいけどさ、やっぱりイェルって俺のこと好きなんじゃないの?」
「はー? 自意識過剰な男は嫌われるよ。つか、ベタベタしいよりこういう方が先輩好きじゃねーの?」
 言ってやると、弥鶴はちょっと考えてから「そうかも」と頷いた。
「えっ、もしかして結婚できないのって俺のせい?」
「……今まで何のせいだと思ってたわけよ」
 小春が記念写真を呼びかけたので、話はそこでお開きとなる。微睡むような時間はそろそろ終わりだ。これもちょっとした非日常のひとつ。移ろう世界の中で変わらない確かなものが、ここにある。
 
 白昼夢にさようなら。
 かつて刻まれた君の言葉も笑顔も、思い出す度に胸が締め付けられる。
 同じ夢は二度と見られないけれど、だからこそ、心が覚えている。意識が忘れてしまっても無意識の中に生き続けて、ある日何かをきっかけとして蘇るのだ。
 かつて、全ての人類は≪能力者≫であった。
 人々は目覚める。
 世界はどこまでも厳しく、広く、可能性に満ちあふれていることを知って、生き抜くために生きて生きて、その道程を描ききるための長い旅を続けてゆく。


マスター:ツヅキ 紹介ページ
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知的 ハートフル ロマンティック せつない えっち
いまいち
参加者:75人
作成日:2012/12/19
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冒険結果:成功!
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