●『くりすます温泉にご案内』
他に誰の姿もない人里離れた一角に、ふわりと白い湯気が立つ。 そんな秘境の温泉に、茅と美樹の姿はあった。
「美樹、温泉行かない?」 「温泉?」 発端は、茅が美樹にそう持ちかけた事だった。 もうじきクリスマス、そして年の瀬。――今年一年、色々な事があって美樹が大変そうにしていた事を茅は知っていた。だからこそ、日頃の疲れを癒して貰えたらと、茅は美樹を誘ったのだった。 「よくこんな場所を知ってましたね」 「実はここ、昔一度だけ来た事があるんだよね」 いい湯だと褒めながら気持ち良さそうに浸かっている美樹に、茅はそう答える。 それは土蜘蛛である茅が、現代に蘇ったあとの事なのか、それとも……? (「まあ、どちらでもいいですよね」) 今はただただ気遣いに感謝しつつ、この素晴らしい温泉を満喫しようとする美樹。ぷかりぷかりと、そんな2人の周囲をいくつかの柚子が漂う。 柚子湯には血行を良くして風邪を予防する効果があるという。今日はクリスマスだが、数日前は冬至。そして冬至には柚子湯に入るのが日本古来からのならわし。 そこで、茅は冬至の習慣にちなんで、袋に柚子を詰めてここまで持参すると、この天然露天風呂に柚子を加えてみたのだ。 鮮やかに浮かんだ柚子の姿は、2人の目も楽しませてくれる。 「クリスマスに男二人で温泉というとアレだけど、冬至だと思えば何ら問題はないよね」 「そうですね」 茅の言葉が、まるでそう自分自身に言い聞かせるようにして喋っているように聞こえて、美樹は思わず苦笑を浮かべる。 ――まあ、ちょっとアレな過ごし方かもしれないけど、でもこういうクリスマスだって、悪くない。
こんこんと沸く温泉に身を預け、2人は穏やかに静かに、温泉を満喫する。 しかし、冬の日が落ちるのは早い。少しずつ空が薄暗くなってきた事に気づいて、美樹は呟いた。 「そろそろ帰らないといけませんね」 このあたりは周囲に何もない。日が暮れれば真っ暗になるだろう。その前に、と言う美樹に、茅も立ち上がってタオルに手を伸ばす。 「なら最寄のバス停まで送っていくよ」 「? 茅は帰らないんですか?」 「ああ……ちょっとね……」 首をかしげる美樹に、茅は複雑そうな表情を浮かべて視線をそらした。 この後ちょっと、雪山にね……と、どこか黄昏た様子で話す茅に、美樹はよく事情が分からないものの、「ええと、まあ、頑張って?」と声をかける。 「うん、ありがとう……」 ちょっと遠い目をしたものの、茅はすぐに気を取り直して。着替えると柚子を引き上げて袋に詰める。 「忘れ物は無い?」 「大丈夫です」 荷物を確認して頷き返す美樹。じゃあ戻るか、と茅はバス停への道を先導していった。 あとには、変わらずに湯気を立て続ける秘境の温泉と……。 クリスマスのひとときを、2人で共にのんびり過ごした思い出が、残るのだった。
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