●『L'espace d'amants』
車を降りると、潮の香りがする冷たい風が肌に触れた。 それがとても新鮮なことに思えて、明彦は隣のハディードに向けて口を開く。 「――冬の海って、見た事がなかったかもしれない」 二人の胸に、初めて一緒に海を見た日のことが思い出される。 あの時は、まだ海を知らなかった明彦を、ハディードが連れて行ってくれた。 夕焼けの色そのままに、赤く染まった夏の海。生まれて初めて見た海は、すごく綺麗で。 「……今でも、良く覚えてる」 「綺麗だと喜んでくれて、嬉しかったな……」 懐かしむように目を細めて、ハディードが明彦を見る。彼が忘れられないのは、夕暮れの赤い海と、もう一つ――それを眺める明彦の、輝く海のような青い瞳。 どちらも、ハディードにとっては大切な思い出だった。 「あの頃は一緒というだけで、いつも緊張して胸がドキドキしてた」 明彦が不意に口にした言葉を聞いて、ハディードが一瞬目を丸くする。それを見て、明彦は照れたように視線を逸らした。 「……恥ずかしいけど、今だから言ったんだからな?」 まるで弁解するような彼の口調に、思わず微笑むハディード。 そのまま空を見上げた明彦の目に、ひとつ、またひとつと舞い落ちる白い雪が見えた。 「雪、降ってきたな……寒いけど、雪と海が見える景色もいい」 ハディードが明彦を連れて行ったあの日、二人で夕焼けに染まる夏の海を見た。 明彦がハディードをここまで連れて来た今日も、雪が降る冬の海を並んで眺めている。 季節は巡り、時は流れて。それだけ長い時間を、ずっと明彦と一緒に過ごしてきたのだと――ハディードは感慨深く思った。 そっと明彦に寄り添ったハディードが、愛しい人の肩を抱く。 「……どうした? いきなり」 抱き寄せた明彦の耳に、ハディードは溢れるままの想いを告げた。 「あき……愛してる」 「――俺も愛してる、誰よりもずっと」 愛を交わす二人の指には、小さな宝石を埋め込んだ銀の指輪。 恋人たちの聖夜を祝福するように、青い海と白い雪が優しく輝き続けていた。
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