光眠る水底



<オープニング>


●魂呼びの歌
 六月の雨が来る前、よく晴れた日には森の水が鳴る。
 湖底から湧き出す泡が石と化した白樺の間を潜り、どういう訳か水面に高く澄んだ音を響かせるのだ。
 長い年月を経て水晶よりも硬く透明に変質した木々は、いずれ朽ちて湖底に積もり――水底に儚く澄んだ音を響かせる。

 たとえば誰かを呼ぶ、か細い願いのような。
 たとえば誰かを想う、柔らかい祈りのような。
 硝子の竪琴に張られた銀糸を爪弾くような悲しく甘い音色がするその場所を、人々は『魂歌の泉』と呼んだ。

●水辺への誘い
「でね、その現象の事を『魂呼びの歌』って言うんだ。生き物が棲めないほど透明度が高くて、水が綺麗な湖でしか見られないんだよ」
 静かに過ごすには良い場所だと思うと、飛藍の霊査士・リィはにこやかに言った。
 文字通りに嵐のような戦が過ぎ、心身は重く疲れているだろうから今のうちに気を休めてはどうか、と続ける。
「最近暑くなってきたしね。水辺でゆっくりするのもいいと思わない?」
「なんだか随分と推すなあ。一体どんな場所なんだ?」
 妙に張り切っているというか、無理に元気を保っているような霊査士の言葉に、冒険者達は苦笑しながらも耳を傾けた。
 リィは頷くと目を伏せて、ええとね、と珍しく静かに冒険者達の知らない光景を紡ぐ。

 降り注ぐ陽射しの中で歌う泡と水。
 煌く水面に泡が紡ぐ儚い音色は、澄んで優しい。
 どれだけ夏が迫り周囲の緑が濃くなろうとも、決して濁らぬ静かの湖に風が渡る。
 生命の棲まぬが故の静けさは常ならば寒々しくも見えようが、疲れた身を一時休ませるには心地良く感じるかもしれない。
 触れる水の冷たさは雑念を払い、風に揺らぐ水面のリズムは意識を鎮めてくれるだろう。
 煌き砕ける木々の歌に耳を傾けながら、追憶に身を任せて夢に遊んだり、明日を思って決意を改めるのもいい。

 とにかくそんな静かな時間が、少しだけ必要なのではないかと――霊査士は視線を上げると、精一杯の穏やかさを込めて笑った。

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参加者
NPC:飛藍の霊査士・リィ(a90064)



<リプレイ>

●静緑
 湖を抱く森は深く、けれど決して暗くはない。
 生き物さえ住まぬ清さ故か、夏の緑に濡れる岸から覗けば、光を受けて煌く泡と朽ちた白樺が驚くほどくっきりと見えた。
「魂呼びの歌とはよく名づけたものですね」
 繰り返し生まれて消えるだけの寂しい光景も、この音が加われば不思議と心安らぐものに感じる。
 微笑んで、何時か自分もこんな静かな世界へ行くのだろうかとアクエリアスは考えた。当分生の喧騒を離れるつもりはないが、終に行く場所がこんな場所なら悪くはない。
 初夏の日差しを受けた湖は清く、思いの外開放的でもあった。
「こうやって何もせず水に浸かってるっていいですねー」
 胴にしっかり綱を結んで、エスティアは機嫌よく水に足を浸す。響く音に耳を傾ければいつものように意識が薄らぐも、命綱があるから大丈夫――などと考えているうちに、何かに引っ張られる感覚が少女を襲った。
 はっと目を開ければ、びしょ濡れで岸辺に寝かされている事に気づく。
「おはよ。命綱、役に立ったね」
 苦笑いする飛藍の霊査士・リィ(a90064)の手には、エスティアの胴に「だけ」結ばれた命綱が握られていた。
 そんな霊査士から一通り湖についての話を聞き終えたクロスは、人の近くを離れて森へと足を伸ばす。
 木々のざわめきは疲れた心身に心地良い。気に入った木蔭を見つけて立ち止まった男は、つと目を閉じて先の戦いで散ったもの達のことを祈った。
「大地に戻った英霊に感謝と追悼を……」
 精神を研ぎ澄まし、剣を抜いて水面に揺らぐ影を切れば、同時に浮かんだ泡が高い音を響かせた。
 木に寄り添うように輿を下ろしたフィーネは、目を閉じてこの一年を思い返す。
 何もせずも待つのが嫌で、自分で路を切り開きたいと願って力を得た。そして――得たものは様々な色を含んで今も胸の中、育ちつつある。
(「冒険者になって何かの、誰かの役に立てた? 想いを伝えることができた?」)
 自問の合間に揺らぐのは穏やかな時間、優しい記憶。少女はただ黙って、追憶と今の狭間に身を沈める。

 揺らぐ水は深く優しい、命の象徴。
 触れれば落ち着くのは、きっとその存在が大きいから。屈みこんでリアは掌を水面に重ね、出会っては別れ、得ては失った冒険者としての道程を思う。
「……どうか、また何処かで会えます様に」
 冷え行く指先に静かに還る命を思いながら、生者と死者それぞれの為に跪き祈る。
 風と泡に揺れる青銀の鏡は、一見すれば何の変哲もない湖でしかない。
 不思議なものだと首を傾けるガルスタの姿もまた、水の上では頼りなく揺れる。
「引きずり込まれては困るが、このような音を聞いたら見に行ってしまうな。面白いものだ」
 旋律にじっと静かに聴きいっていると、己の魂も呼ばれているかのような錯覚が胸を過ぎった。
 独り人気のない木蔭に身を寄せたアリアは俯き、静かに重なる音の名に思いを馳せる。
「本当に、魂を呼び寄せてくれればいいですのに……」
 触れられなくても、話せなくてもいい。あの戦いで散った人達の、せめて姿だけでも戻ってきてくれたなら。
 少女は目を閉じ、少しの間だけ泣く事を己に赦す。
 神との戦い、散った命。そして告白を受けた事。故郷の森に似た景色を眺めるうち、セライアは乱れた心が静かに澄んでいる事に気づいた。肩に乗せた大切な友達の栗鼠に笑み、ふと思いついて弓を取る。
「次に逢う時は笑顔で居られます様に……」
 泡の歌に乗せ、弦を弾けば震える空気に合わせて木々が鳴る。
 そのざわめきと影は一人一人を包み、心細い背も隠してくれる。オウリは弾ける泡の音に耳を傾けながら、喪われた大事な人々を想った。
「どうぞ、そこからわたくし達を……見守っていてくださいませ……」
 彼らが残してくれたものは笑みだった。ならば自分達も笑みで答えねばならないと、少女は決意を秘めて祈りの歌を紡ぐ。
 この歌が、この澄んだ音色が、彼らの元にも届けばいいと願いながら。

●淡蒼
 剥がれた木の欠片が水底に響かせる音は、空へと上る泡の音と違って柔く細い。水を介して伝わる甘い音は、誰かが甘く囁きかける声にも聞こえる。
 ステュクスは水と共に揺らぐ光の合間で、怒濤のように過ぎたあの日を思いながら満ちる音に耳を澄ます。
(「……人は。死んだら、どうなるのかしら……?」)
 自分が今まで、死に縁遠かったとは言わない。けれど「神」との接触は死に対する意識を僅かに揺さぶった。
 自分は死んだらどうなるのだろう。死んだ後、自分以外はどうなるのだろう――蒼の中を漂いながら、女は泡のように浮かぶ考え事に心を傾ける。
 魂を呼ぶ歌。それは死と生、どちらの為に歌われるものなのだろう。
 フィードは淡い水色の世界を白く焼く光を見上げ、祈るように瞼を閉じる。小瓶に入れた清浄な水と結晶は、今日触れた世界の欠片。水の歌声と記憶をこの身に持っていたいと願いながら、青年は水面を目指す。
 岸辺で友の帰りを待つラジシャンは、揺らぐ青と光の合間に流れる時間に身を任せていた。
 歌が招くは光溢れる常世か、水底の国か。それとも誰かが誰かを呼ぶ声こそが歌なのか。と廻る思考は、湖底から帰ったフィードの立てた水音に途切れる。ラジシャンは身を起こすと、友に向かって手を伸べた。
「……お帰り」
 笑みは交わされ、手は繋がれ、冷えた体も生きていればまた熱が通う。
(「向こうは命を掛けてくれたんだもの」)
 ニューラは幾度も幾度も浮かんでは潜り、友に贈る為の結晶を探していた。
 湖底に積もる結晶には白や茶が多く、目当ての黒い結晶を探すのには苦労しそうだったけれど、命を賭けて共に来てくれた人に報いるに相応しいものをと念じて冷たい水に潜り続ける。

 水面から降る光は近く遠い。
 湖底から空を見上げたアニエスは目を細め、静かに体の力を抜いた。
 水の抱擁に身を任せながら特別な今日を想い、思考に浸る。生まれては弾け、また生まれて来る泡のように終わりと始まりが廻り繰り返すなら、この世界を過ぎ去ってしまった人達も、新たな灯火を残して。
(「そうして世界は廻っていくのかな」)
 弾ける泡の儚さは美しい思い出に似て、どこか寂しくもある。
 逝ってしまった愛しい者と会う事はもう叶わなくても、残された自分達は彼らを鮮明に覚えている。そう、覚えているのだ。ユヴァは暫し湖の美しさを堪能した後、傍らの男に目をやり、なあ、と呼びかける。
「私がいなくなったら、欠片でもいい。覚えていてくれないか」
 人を忘れるのも、忘れられてしまうのも恐ろしい。だから約束だけでも欲しいのだと続ければ、黒運命卿・セレノは何が楽しいのか至極愉快げに目を細めた。
「その目も髪も声も、何一つ忘れずに居よう。君が望むならば」
 返される言葉の真実は悟れぬまでも、結んだ約束だけは確かに残る。
 面と底に繰り返す音の応酬は、彼岸と此岸に別たれた者達が互いを呼ぶ声のよう。
「もう少し暑くなったら、水浴びも良いのでしょうけれど……」
 ユディエトの呟きに、ウィルアは黙って笑う。特別何をするわけでもなく、二人で水を眺める時間はとても優しい。
 交わす言葉は少なくとも、触れる肩、重なる手から伝わるものがある。透き通る水の如く、波風も立たない水面の如く、今は静かにあれればいい。守るように重なるユディエトの手を握り返し、ウィルアは小さく囁いた。
「……ありがとう」

●水揺
 水は優しく、湖に浮かび空を見上げる少女の背を揺する。穏やかな心地良さが慕った女性の面影を思い出させて、キクノは小さく嗚咽を漏らした。
 体の傷は癒えても、心は未だ靄の中で痛み迷う。けれど、その奥底からは新しい何かが生まれてくるような気がして――胸に溢れる思いのままに少女は涙を流す。
 あの人は、帰って来なかった。
 浸した足を揺らすケイカの胸に満ちるのは、後悔や悲しみではなく寂しさだ。記憶の中では今にも何処かから顔を出すのではないか、と思う程に近いのに、現実には大好きだと叫んでも答えが返らない事が酷く寂しい。
「……えへへ、泣いたりしませんが」
 走る痛みを隠すように笑み、ケイカは景色を眺める。
 優しいもの、綺麗なもの、穏やかなもの。きっとこういうものを守って散っていった、あの人のいた世界は今もこんなに美しい。
 空と水の境目で弾けさざめく音に耳を傾けながら、ファオは緩やかに沈思に浸る。
 大きな戦、大きな犠牲は多くの悲しみを生んだ。けれど見渡してみれば、世を去った人々は誰もが誇り高く微笑んでいた気がして――私も前を向かなきゃと、呟いて青い刺繍糸を手に取る彼女の顔にもいつしか微笑が浮かぶ。
 直接誘いをかけるわけでもなく、可能ならばと消極的な姿勢だった事が原因で、ウェイが目的の人物を探し出すまでには随分と手間取った。
「誰が呼んでいるのか、失った者が多すぎて分からないな」
 苦笑しながら散った人々を想えば、彼らの決意に反しても一緒に生き続けたかった、と叶わぬ願いが胸を焼いた。思わず零れた一滴を拭って振り向き、護る為に戦う決意を告げれば、セレノはただ緩く笑む。
「君の決意は君のものだ。私からは何を言う事もないが、応援しているよ」
 手の甲で軽くウェイの肩を叩き、男は水面に視線を転じた。

「今日は兄弟水入らず。遠慮なんかしちゃ駄目なぁ〜ん!」
 僕も気分を変えたいと思ってた所だから丁度良かったの、とルディーは自分を追い越してしまった弟の背を叩く。
 パナムは再会したばかりの兄に気を遣わせてしまった事に苦笑しながら、静かに煌く湖面に目をやり、ぽつぽつと亡くした人の事を語った。
「とても尊敬してた。今でも、尊敬してる。……すごく楽しかった……」
 共に過ごした時間を思えば、浮かぶのは微笑だ。弟の様子に兄も笑い、そうして再会までに抱いた様々な記憶と気持ちを分かち合うように話を続ければ、やがて胸を乱す波は凪ぐ。
 柔らかな草の上に寝転がって、ナオは心地良さに目を細めた。
(「気持ちを新たに作る楽しい思い出の、記念すべき1つ目だな」)
 ――精一杯生きて。楽しい思い出を一杯作って。
 最期まで笑んでいただろう人の強さに背を押され、踏み出した一歩は少し誇らしい。少年は草と水の香りに包まれて、次の思い出を夢見る。
 時折立ち止まり、水の歌や木々の歌に耳をすませながら、オリエは英霊達を静かに思い浮かべる。その傍らを行くケネスはオリエを見つめ、以前花咲く崖を訪れた時よりも穏やかに落ち着いた様子に、安堵に似た表情を浮かべた。
「今日は泣きにきたわけではないよ」
 視線に気づいたのか、オリエは安心させるように笑みを零し、願いを聞いてくれた事への感謝を述べる。
「俺で良ければいつでも手を貸しますよ。今日、共に此処へと来た様に」
 背中越しに響く歌と友の微笑に、ケネスは労りを込めた笑みでゆっくりと応えた。

●路
 全てを受け入れ、時に戒める水は母のようだ。
 ならば、傷ついたあの人にもこの湖は優しいだろうかとハーシェルはふと思う。
「悲しい顔できなくて笑ってる人がいるんですなぁ〜ん」
 呼ばれて傍らで湖を眺めていたリィが、ん、と首を傾ける。
 無理に気づかぬまま浮かべられる笑みは、見ていて悲しい。気分転換に誘える雰囲気でもないし、とまで零した所で、少女は慌てて顔を上げた。
「はっ、ごめんなさいなぁ〜んっ。今の情けないのなしで……」
「そういう時はね、一緒に笑ったらいいよ」
 真面目な返答にきょとんと相手を見返せば、あまり悩みのなさそうな笑顔がある。
「向き合うと悲しいなら背中合わせで、その人が心から笑うようになるまでさ」
 誰かを気遣う言葉や表情は勿論、温かいものはそれだけで優しいからと霊査士は笑う。
「親分、一緒……お水……綺麗」
 嬉しそうに湖を覗き込むメイヴィスの顔に、翳りはない。
 神との戦いで彼を酷く心配させてしまった事を悔いていたフィズは、微笑みに安堵を隠して「湖に入ってみましょうか」と提案した。
「……入る……あ」
「はい、足元に気をつけ……うわっ!」
 わくわくと身を乗り出したメイヴィスは、いきなり大きく体勢を崩す。助けようと手を伸ばしたフィズは、手を引っ張った反動で思い切り湖に転げ落ちた。
 喧騒と波紋が水面を渡って消え、後を追うように潜めた笑い声が響く。
 サクラは湖岸で一人のんびり過ごしながら、心地良い涼しさを堪能していた。別に寂しいなどとは思ってないし、故郷の湿原を思い出して泣いたりもしていない。多分。
「父上、母上……浮世はまこと字の通りに、憂き世で御座ります」
 先の戦でも多くの者が逝き、嵐が過ぎてなお災いは各地に燻る。こんな今の世だから、犠牲の上に成り立つ一時の平穏ではなく、万人が享受出来る平和の時を夢見てしまう。
「や、いかんいかん。この湖があまりに美しい故、少々腑抜けましたな」
 ゆらりと尻尾を揺らしてサクラは立ち上がる。
 湖面を白く輝かせていた陽は既に傾き、水面は鮮やかな夕焼けの色に染まり始めていた。

 降り注ぐ橙が水と爪先を染める様を見ながら、ダウは静かに変わる世界を思った。
 変わらないものなど無いと知りながら、気持ちは理論と矛盾する。失う程に強くなっていくそれとどう付き合っていくべきか、未だ明確な応えは無いけれど。
「……きっとそれでいいんだな」
「え?」
「ん? ああ、いや」
 撤収の時間を伝えにきたリィと他愛の無い話をしながら、ダウは帰り支度を整える。
 またこうして、皆と会えた事が今はとても嬉しい。
 こうやって誰かと話し、繋がり、続いている事はきっととても幸せで――感謝すべきこと。今それが心に在れば、いずれ答えは現れるだろう。それぞれの前に、それぞれの形で。
 なんでもないと晴れやかに笑う青年に首を捻りつつも、元気である事だけは理解したのか、そっかと霊査士は頷いた。

 朽ちた命と命なき水の奏でる歌は、繋がれてゆく命を見送り、夜の紺色に溶けて唄う。

 ――さあ、おかえり。お帰り。お還り。
 お前達の愛する世界へ。


マスター:海月兎砂 紹介ページ
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参加者:31人
作成日:2007/06/26
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