天風戯れる温泉の里 〜天つ風に綾なる錦〜



<オープニング>


●天つ風に綾なる錦
 遥か眼下に広がる海からは、潮騒のさざめきが遠く幽かに聴こえて来る。
 彼方の景色は澄んだ濃藍を幾重にも重ねた夜闇に沈み、身を乗り出せども深い紺碧に染まる蒼海を見出すことは叶わない。ただ白く泡立ち砕ける波頭だけが秋月の光を照り返し、遥か眼下の闇に時折小さく煌くだけだった。けれどこの断崖の頂に吹く強い風が、この場所が海に面した地であることを教えてくれる。荒波寄せる外海に面した、高く切り立つ断崖の上。
 陽が落ちれば遥かなる海からは、絶え間なく潮風が吹き寄せる。風は地表を離れれば離れるほどにその勢いを増し、小山ほどの高さがある断崖の頂では激しい強風となっていた。潮の香と波の音を溶け込ませた風は断崖の上にある楓の林を揺らし、鮮やかな茜や深紅に染まった紅葉を漆黒の夜空へ迸らせる。紅葉は綾なる錦の奔流となり、深く艶めく夜闇に秋の絢爛を描き出していた。
 華やかに彩られた楓林の傍には温泉が湧出し、清しく香る檜で露天風呂が設えられている。
 藍深き霊査士・テフィン(a90155)は、特に風の強い夜に入るこの温泉を殊の外気に入っていた。
 檜の浴槽に満ちる湯は、淡い乳白に青磁の雫を落としたような不思議な色。勢いよく潮風の吹く夜にはほのかに硫黄が香る湯も風に波立ちて、温かな波飛沫となって頬に吹き付けてくる。湯の飛沫と強い風を頬に感じつつ頭上を仰げば、漆黒の夜空に流れる綾なる錦。金と橙を溶け合わせた篝火に照らし出され、鮮やかな紅葉の織り成す錦はひときわ豪奢に華やかに秋の夜闇を流れていく。
 絢爛たる紅葉の流れを眺めるのも、絶え間なく吹く風を肌に感じるのも。
 勢いよく掛かる湯の飛沫に瞳を瞬かせることすら、楽しくて楽しくて堪らないのだとテフィンは語る。
 荒波寄せる外海に面した、高く切り立つ断崖の上。
 そこにあるのは、天つ風と戯れることのできる湯の里なのだ。

●天風戯れる温泉の里
「と言う訳で……そろそろいい風が吹きそうですから、その温泉に遊びに行こうかと思いますの」
 深々と冷え込む夜気が身体に染み入るようになってきたある秋の夜のこと。
 酒場の一角では陶然とした吐息を零したテフィンがそんなことを言いつつ酒盃を傾けていた。
「外海に面した高い断崖の上にあるその温泉には……強く、そしてとても心地好い風が吹きますの。風に流れる紅葉を眺めるのも、風に波立つ湯の飛沫を浴びるのも、とても……とても素敵」
 盃に満ちるのは、真白な雪をとろりと蕩かしたような濁り酒。
 何処からか持ち込んだ七輪で朴葉味噌を焼きながら、テフィンはうっとりと瞳を潤ませる。
 七輪に乗せられた朴葉の上では味噌がふつふつと音を立て、芳ばしい香りを辺りに漂わせ始めていた。薄切りの鴨肉と舞茸を味噌に乗せ、刻み葱をぱらりと散らす。浅漬けにした水菜を刻んだものでも美味しゅうございますのと言いつつ混ぜあわせれば、鴨と舞茸の香りがふわりと立ち上った。
 テフィンは再び陶然とした吐息を洩らし、言葉を紡ぐ。
「肌馴染みの良い湯に身体を浸して濁り酒を楽しんだり、浴槽の縁に腰掛け身体で風と飛沫を防ぎながら朴葉味噌を焼いたりして過ごすのが……とても、幸せ」
 何もそこまでして朴葉焼をしなくても。
 偶々居合わせて話を聞いていた冒険者はそう思ったが、あえて突っ込むことはしなかった。
 多分、己の身体を盾にしつつ風や飛沫にきゃあきゃあ言いながら朴葉味噌を焼くのが楽しいとか、そういったことだろう。ただ風が吹くだけのことが楽しくて堪らないという人間も、確かにいるのだ。
 程よく火の通った鴨の薄切りで舞茸を包み、口へと運ぶ。
 至福の表情で瞳を細めたテフィンは、濁り酒の盃に口を付けて更に幸せそうに顔を綻ばせた。
「今の季節が一番楽しい温泉ですもの。もし宜しければ……是非」
 居合わせた冒険者へ誘いを向け、テフィンは嬉しげに声を弾ませる。

 秋の夜に、天風戯れる温泉の里へ。

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参加者
NPC:藍深き霊査士・テフィン(a90155)



<リプレイ>

●梔子
 凛と透きとおる濃藍を重ねれば、切り立つ断崖の頂にも鮮やかな夜闇が訪れる。
 遥か眼下の海は艶めく闇の中に沈み、甘い山吹色に蕩けた月の光に波頭を白く煌かせるだけ。けれど断崖の頂を渡る風は潮の香と荒波の力強さを孕み、華やかな紅葉の錦を空へ流し吹き抜けた。
 漆黒の夜天へ綾成す風は、淡く透きとおる乳白に青磁の雫を落としたような湯の水面をも波立てて、温かな飛沫を散らして頬へと吹きつける。大きく揺らめいた朱金の篝火が音を立てて爆ぜ、強い炎の煌きを宿した火の粉が星の河にも似た光の流れを生み出した。
 勢いよく吹く潮風が辺りを淡く霞ませる湯煙をも払うから、天風吹くこの温泉を見渡す視界は鮮やかなまでに明瞭だ。湯に濡れ艶めく檜の浴槽の縁で篝火の光を照り返す陶器の丸甕と、その傍に据えられた初垂れ黒糖焼酎のボトルを見出して、たちまち瞳を蕩かした藍深き霊査士・テフィン(a90155)はいそいそと美酒のもとへ歩み寄った。――途端。
「やはりこの状況は無視できませんでしたねテフィンさん!」
「きゃああぁぁあっ!?」
 篝火の影に身を潜めていたグレイが姿を現し、驚いたテフィンに朴葉を投げつけられた。
 ……七輪でなくて良かった。本当に。
 焦香に浅蘇芳の釉を乗せた落ち着いた色合いの焼酎サーバーから華やかに香る至高の甘露を酌んでやり、これぞ誘い受けの構え奥義ですと胸を張ったグレイは「……えい」と濡れた何かを額に貼り付けられた。手に取ってみれば、それは空から零れ落ちた綾のかけら。
 深い茜に色づく楓の葉に瞳を細め、天を仰いでさざめき流れる秋の錦へ心を浸す。
 背に負った物を心に抱けば、ひとはまた強くなれるのだ。
 ならば――戦いへ赴くことに何の恐れがあるだろう。
 初雪を蕩かしたような濁り酒を盃に注げば、風に煽られ飛沫が零れる。その様に苦戦しながら彼に酌をする霊査士に笑みを零し、アキュティリスも彼女の盃へ濁り酒を酌んでやった。誘いへの礼を紡げば楽しんで頂ければ何よりと微笑まれ、アキュティリスの盃もとろりとした濁り酒で満たされる。朱塗りの盃に口を付ければ甘い香が鼻先を擽って、優しい米の甘味と柔らかな舌触りが口中に広がった。
 湯裳着を纏った身体を湯に浸せば、滑らかな湯がじわりと身体の芯までをも温めてくれる。心地好い温かさに懐かしい日々を思い出しながら、檜の縁に緩く背を凭せてみた。 
 霞のような気泡が立ち上る炭酸水を注げば、硝子杯には咲き誇るアイリスを思わせる明るい紫が広がっていく。ブルーベリーが加えられているらしいラベンダーコーディアルを含めば、爽やかな甘酸っぱさと穏やかな花の香が鼻に抜けた。以前貰ったコーディアルを重宝している旨と、コーディアルを作る人に感謝の言葉を伝えたい旨をノリスが語れば、もう伝わってますのと霊査士がくすくす笑みを零す。
「ええと……そんなに気に入ってらっしゃるなら、いっそ、作ってみます?」
 機会を設けられるよう考えてみますの、と保存食作りを好む霊査士が小首を傾げた。
 凛とした夜気を孕む冷たい潮風が、淡く霞んだ色合いの湯に大きな波を作る。
 温かな波と飛沫を真正面から被ったヴァーグラークが瞳を瞬かせる様に微笑んで、エドワードは艶やかな雫の伝う彼の鱗に刻まれた紋様を指先でそっと辿った。夕陽色の柔らかな羽毛が揺れる様が擽ったくて、ヴァーグラークはくつくつと笑みを洩らす。気持ち良いナぁと呟けば、微かに頷いたエドワードが温かな湯の中で身を寄せてきた。触れ合う温もりに至福を感じつつ、後で皆に冷たいカクテルを振舞おうかとまるで幸せをお裾分けするような気分で考える。
 緩く目蓋を落とせば波立つ湯に揺られるような心地がして、穏やかな幸福が胸に満ちていった。
 温泉の硫黄がほのかに香る中に清しい檜の香が滲んでいく様には何とも言えない風情がある。
 滑らかな檜に背と腕を凭せかけ、柔らかな湯に浸かりながら酒盃を傾ければ、日頃心を戒めている何かがゆっくりと解れていくような心地になった。天風織り成す錦を仰ぎ、何やら風流めいたことを呟いているテンユウの盃に燗をつけた濁り酒を酌んでやれば、あでやかな甘い香がふわりと花開く。
「幸せだな、こういう時間を楽しめるのは」
 ああ、と軽く盃を掲げ口の端を擡げて見せた彼に笑みを返し、ガルスタもまた盃を掲げて見せた。
 穏やかに過ごせる時があればこそ、明日への活力も生まれ来る。
 満面の笑みで差し入れの大吟醸を抱きしめたテフィンに「今年もようこそ」と言われたとおり、気付けば錦秋の頃に温泉を訪れるのが恒例となっていた。白薔薇咲く森の色の髪を掬い上げるように吹く風に楽しげな笑みを零す妻の様子に微笑みながら、セルシオは湯の中に身体を沈め波立つ水面へと慎重に盆を浮かべる。出逢った頃はまだ少女とも言えた彼女も、こうして酒を酌み交わせるまでに年を重ねてくれた。流れた時と積み重ねた絆を思えば、胸の中にほのかな灯りが燈るような心地になる。
 盃に満ちていく酒が立てる音とふわりと広がっていく香が楽しくて、フェアは瞳を瞬かせた。一緒にお酒を嗜めるなんて格別、と幸せそうに目元を緩める夫の盃にも酒を注ぎ返し、そっと盃に唇を寄せる。
 ずっと、大人になりたかった。
 追いつきたくて、肩を並べたくて、ずっとずっと気を張って。
 けれど蕩ける酒が心と身体へ緩やかに染み渡り、肌に馴染む柔らかな湯が身体を包み込めば、張り詰めた心も優しい温もりの中へ浮かび上がって解き放たれる。傍らにある優しい腕に身を預ければ、意識が溶けて行くような心地にもなった。
 空を震わせ流れる風に乗り、華やかな紅葉が錦の奔流となって夜闇を翔ける。
 世界は、とても――とても綺麗。

●照柿
 深い濃藍の彼方から吹き寄せる強い風は、胸の内に微かな不安をも呼び起こす。
 けれど鮮やかな橙色に燃える篝火が爆ぜ、朱金に煌く火の粉が零れ風に舞って光の河を成す様は暖かで美しい。煌きの流れに何処か慕わしさを感じつつ、ファオは穏やかに瞳を細めた。
 荒ぶような風は耳元に唸りを呼び、天を流れる紅葉達は波にも似たさざめきを響かせ流れ行く。
 風の冷たさを全身で受け止め瞳を閉じれば、皆の楽しげな声が耳に届いて思わず口元を綻ばせた。
「ふふん、負けませんよ」
「ボ、ボギーだって耐えるのです……!」
 ひときわ熱い源泉が溢れる湯口の近くで肩まで熱い湯に浸かりながら、テルミエールとボギーが熱気で真っ赤になった互いの顔を見て楽しい企みに笑みを浮かべる。身体の芯までたっぷりと温もりを蓄えてから、二人は一斉に風呂を飛び出し風のもとへと駆け出した。
 風が冷たくて気持ち良いです〜と弾んだ声が響いてくる様に明らかにうずうずしている気配を感じ、アーケィは七輪の上でふつふつと音を立て始めた朴葉味噌に葱を散らしながら釘を刺した。
「テフィンさん……崖から身を乗り出さないでくださいね?」
「いやだアーケィ様ったら。……ふふ、お誕生日おめでとうございますの」
 思いっきり誤魔化したテフィンの酌を受けながら、香ばしい朴葉味噌をつけた焼きおにぎりに舌鼓を打つ。そーいえば誕生日だったなぁと濁り酒を舐めつつ思えば、とろりとした温もりが広がり自然と笑みが浮かんできた。何て居心地のよいひとときなんだろう。
「俺風も好きだぞっ! 飛ばされそうになるけどさー、って……うおーっ!」
 温泉に足を踏み入れた途端強い風に煽られて、思わずよろけたところをテフィンに抱きとめられた。後頭部にキスを貰ったクリスは「ささ、まずは一献!」とテフィンの盃に酒を酌む。自分は懐かしく香る玄米茶と月見団子を楽しみながら、顔には出さぬまま忍び寄る戦の気配に想いを馳せた。
「……貴方の翼は、痛みを知って……とても、とても強くなったのね」
 伸ばされた手が背の翼の端を慈しむように撫でる。
 大丈夫。ずっと笑顔のままでいた。
「アデイラさん……何も言わず、ただ抱きしめさせて下さい」
 湯の中で正座した膝に両手を乗せ、改まった様子でシアが見つめれば、柔らかな笑みを浮かべたアデイラが迎え入れるように両手を広げて見せる。きゅっと抱きつけばそのまま抱きしめ返されて、肌に感じる命の温もりと頬に寄せる湯の波と飛沫の心地好さに涙が滲んだ。髪を撫でる手と眦に落とされるキスは甘えを受け止めてくれる証だ。
 明日からはまた戦の匂いに気を張る日々が来ると知りながら、今宵だけは緩やかに心を溶かした。
 深い闇を流れる紅葉は燃え立つ篝火に照り映えて、深緋や薔薇の鮮やかな錦を空へと描き出す。
 綺麗ですわと呟けば澄んだ雫を纏った硝子杯を差し出され、メアリーは頬に熱が差すのを感じながら冷たい黒豆茶を受け取った。優しい気遣いをルーンがくれるのが、とても嬉しい。
 潤む瞳を細めた彼女を抱き寄せれば、そっと寄りかかるように身を預けられた。白い頬が薔薇色に染まっていく様を見ている内にルーンの胸も高鳴って、鼓動を洩らすようにして「大好きだよ」と囁きを落とす。そのまま優しく唇を重ねれば、震えるほどの幸せが全身に広がっていった。
 心騒がせる風は目を奪うほどにあでやかな彩りを抱いて流れ行く。
 風に煽られる黒髪の下で優しく煙る灰の瞳は、先の秋には何処か彼方を見ていた瞳だ。
 けれど今その瞳は真直ぐ此方を向いている。それが何だか信じられなくて、カーツェットは数度瞬きをしつつ程よく味噌を絡めた鴨肉を口へ運んだ。ウィルカナは彼のそんな胸中を知ってか知らずか「この濁り酒さ、とっても美味しいだよ」と手に持たせた盃に酒を酌む。艶やかな朱の盃に柔らかな雪の白が満ちていく様が重ねてきた確かな時の流れを示しているかの様で、眼鏡の下の瞳が僅かに和らいだ。
 冷たい闇へふと瞳を向けた彼女が、早く戦なんて終わればいいのにと呟く。
 そしたら、ずっと一緒にいられるのに。
 小さく紡がれた言葉に軽く瞳を瞠り、寄せられた身体の温もりに瞬きをする。

 肩を抱き寄せても許されるだろうか。
 そのまま唇を寄せることも――叶うだろうか。

●韓紅
 潮の香と波の音を溶かし込んだ風は、まるで急くようにして夜空を疾く翔けて行く。
 天風に連れられた紅葉達は奔流となり、舞い落ちることもせずに篝火の上を流れていった。
 僅かに零れた深い薔薇色の錦のかけらを手に取って、月光を紡いだかのような銀の髪に飾る。
 ほんのり上気したセラフィンの頬が喜びに和らぐ様に、オーディガンも目元を和ませ笑みを浮かべた。
 風と波の音に怯える心も、彼の温もりに寄り添えばゆるゆると溶けていく。
 淡い吐息を洩らしながら、セラフィンは柔らかな湯の中でそっとオーディガンに寄り添った。
 透きとおる硝子杯に満たしたラベンダーコーディアルは、明るい紫色に揺らめいている。
 光を透かせば淡く色づいた透明な影が湯に浮かべた盆と水面の上に揺れ、その儚く美しい色合いにヴァルは微かに口元を綻ばせた。コーディアルの炭酸割りを作ってくれたコーシュカから杯を受け取り、暖かに輝く篝火から離れた場所で澄んだ音を立てて杯を合わせる。またひとつ先に行ってしまわれましたねと微笑む彼女に少し寂しいなと返しつつ、花の香る杯に口を付けた。
「……ヴァル様、お誕生日おめでとう御座います」
「お祝い、ありがとう」
 冷たい風が荒ぶ様に瞳をめぐらせれば案の定、瞳を潤ませたテフィンが檜の縁に腰掛けていた。
 温まらないと駄目なのだと湯の中に引き寄せた途端、風に煽られた飛沫が盛大にかかってくる。
 瞳を瞬かせれば濡れた前髪をそっと指先で払われて、そのまま腕の中にテフィンが収まった。何か問いたげに向けられた藍の瞳に、ボサツはいつも秋には誕生祝いをねだっていたことを思い出す。
 けれど望みは曖昧で、ただ揺るがぬ何かに焦がれていた。
 何にも負けない絶対的な力。
 途切れそうな糸を繋ぎ止める大きな手。
 何事にも動じない心。
 口をついて出る言葉に自嘲の笑みを洩らし、彼女が何かを言う前に「嘘」と全てを封じ込める。
 上手く言葉に出来ないなと笑みに紛らせて「愛してる、の言葉だけで十分だ」と囁いた。
 狡いと尖らせた唇は、相変わらず不器用ですのと愛しげな声音を紡ぐ。
「――貴方を、愛してる」
 耳元で囁いた唇が、掠めるようにそっと触れた。
 淡く透きとおった蕪を箸で割れば、出汁の香りと柔らかな湯気が立ち上る。
 蕪を鶏そぼろの餡に絡めて取り、リアは「ほら、あーんしろ。あーん」と夫の口元へ箸を差し出した。料理を作ったのは夫だが細かいことは気にしない。やはり些細なことは気に留めないヴァンアーブルも、妻の仕草に瞳を和らげ大人しく口を開いた。温かな蕪が口の中で蕩ける様に満足気に瞳を細め、柔らかに揺れる濁り酒の盃を傾ける。
 盃の中で雪を蕩かしたような酒が波立つ。
 艶やかな檜の浴槽の中、淡く霞む湯が飛沫を上げる。
 温かな飛沫が容赦なく頬を濡らし、長く伸ばした髪が棚引いて。
 頭上を流れる紅葉のさざめきと耳元を掠める風の唸りに、琥珀の瞳が彼方へ向けられる。
「……リア!」
 声を張り上げ名を呼べば、背の翼をぶるりと震わせたリアが我に返ったように瞬きをした。
「ヴァン……」
 呆けたように呟いて、リアはしがみつくような風情で夫の背に腕を回す。
 強い風が吹けば心が騒ぐ。優しく暖かな掛け替えの無い居場所を見つけたのに、何故自分は風に誘われるたびに何処かへ飛び立ってしまいたくなるのだろう。己だけの風は、ここにあるというのに。

 荒ぶ風の勢いは衰えないけれど、そこに嵐の匂いは無い。
 風を霞ませる砂塵の匂いも無かったけれど、何処か懐かしい潮の香りは同じだった。
 嵐の砂丘に佇んだあの日からは一年以上の月日が流れている。
 もう一年、そして、まだ一年。
 上手く纏まらない想いが胸の中に揺らめく様を感じながら、メロスは流れる紅葉を仰ぐハルトの盃にそっと酒を満たした。海から吹く風が長い髪を弄び、砂塵の代わりに温かな飛沫が頬を叩く。
 きっと彼も、同じあの日のことを思っている。
 盃に満ちた酒に微かな笑みを浮かべ、ハルトもメロスの盃を静かに満たしてやった。
 流れる風の、荒ぶ風の音が好きで。けれど誰にもそれを言ったことはなくて。
 でもそんな些細なことをあの日君に伝えたかったと囁くように紡ぐ。
「……幸せ?」
 とろりとした熱を齎す酒を喉に滑らせながら、不意に問いを唇に乗せた。
 今までのこととも、今この瞬間のことともつかぬ問いに、メロスは緩く瞳を細める。
 世界に逢いにいったあの日から、何て様々な出来事を経てきたのだろう。
 重みに潰されてしまいそうになったことが無かったとは言わない。けれど。
「私、幸せだよ……ありがと、ハルト」
 波立つ湯を掻き分けて、縋るように抱きしめる。
 風が立てた飛沫に濡れた頬へ、小さな温もりを静かに寄せた。


マスター:藍鳶カナン 紹介ページ
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参加者:27人
作成日:2007/11/29
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