Full Moon -想い溢れて-

● この手を離さない

「……あの時は、小麦畑でしたわね? わたくしが男役で、貴方がお姫様」
「女装の事は忘れてくださいよ」
「い・や・で・す♪ ……忘れませんわ。だってあれが私たちの出会いですもの……ね? それとも――貴方が今度は私を、お花畑で捕まえて下さる?」
「どんなに逃げても捕まえて見せますよ」
 苦笑するセルシオに微笑を残して身を翻るフェア。冷たい夜風の中、真白のドレスが花弁と舞い、踏み分けられた草から柔らかな香気が立つ。
 月に向かって舞う幻でできた白色の蝶だ――触れて捕まえて抱かなければ儚く消えてしまいそうな気がして、フェアを追って駆け出すセルシオ。
 触れて欲しい捕まえて欲しい、強く抱いて離さないでいて欲しい――願う間も無く、気が付けばフェアはセルシオに捕らわれていた。
「フェア――」
 セルシオが耳元で囁く。名を呼ばれる度、愛という揺籃の中でフェアの心が切なく震える。
 やさしいくちづけを下さい――。
 潤む双眸を通してフェアの思いがセルシオへと伝わる。気が付けばセルシオはフェアの甘い唇に唇を合わせていた。
 触れた場所から思いと融けて行く。眩暈がするような、涙が毀れる寸前のような、揺れる感覚の中でセルシオは今まで自分が旅を続けてきた意味を知る。
 きっと貴女と逢う為だ、フェア。
 絶え間なく押し寄せる旅への渇望が、貴女といると癒えて行く。
 それでも。
 2人は分かっていた。2人は冒険者で、共に過ごす日々は永遠ではなく、儚いほどに短く終わる定めがこの先に待ち受けているかも知れない。灰色の不安が忍び寄る。
「貴方が望むのなら、何もかも受け止められるわ。けれど――離さないで。……もう、ひとりになるのは……」
 セルシオの胸に頬を寄せたフェアは、腕の中で密やかに声を零して恋人の顔を見上げ、頬に手を添わせた。愛しさが満ちるこの時間を大切にしたくて、不安の色をした霧を払う様に、セルシオは微笑んだ。
「何があっても貴女の手を離しはしないよ、僕のフェア……」
 囁き声が夜を震わせる。自分の頬に添えられたフェアの手を優しく握り締める。それからセルシオは2人の心を繋ぐ絆を更に強める様に、フェアの左薬指――愛と契約の指に暖かなキスを送った。
 受け取った愛の深さに、心が溢れてフェアの瞳から涙が毀れる。両頬に手を添えて、親指で涙を拭い、正面からフェアを見つめるセルシオ。
「白薔薇姫・フェア、貴女の……」
 夜風が吹き抜ける。花園が雨に似た清かな音を立てる。ドレスの裳裾を風と戯れさせながらフェアが僅かに爪先立つ。セルシオの唇が紡いだ言葉の最後は風に散らされ、互いの唇が交わす約束の口付けに吸い込まれて消えた。


イラスト: 龍胆